2021.08.01 14:08愛より深い海 deeper than love日本海側の小さな町には町を飲み込むほどの大きな海があり、穏やかな春の日には蜃気楼という幻を見せてくれたりするものの、常に海は鳴り響き、海鳥は落ち着きなく海面を飛び交い、波に打たれた石たちは全てまるく削り落とされ、波が引くたびにがらがらと音を立てる。反対側の立山連峰から昇ってくる太陽はこの海へと落ちてきて、遠く、遠くに赤い火種を、蝋燭の火のような赤い火種を揺らめかせながら、太陽は海に溶け、海は太陽を...
2021.04.19 08:24彼女は夢を追いかけている「わたし、彼女のこと大好きなんですよ。こういう、夢を追いかけている子が大好きなんです」多分秋で、ケーキがおいしい店だった。というか、ケーキ屋に併設されていたカフェだった。同期のシンガーソングライターのライブの前座として一人芝居をすることになったからと、空席を出すわけにはいかないからと、土下座ばりの蝶子の頼みを聞き入れて私は神戸元町の坂をのらくらと上がり、会場になったカフェの隅の席に腰を下ろしていた...
2021.02.28 11:13「さびしさはめぐる」最近は仕事がたくさんあり、会社を出る頃には帰路の飲食店は軒並み電気を消してシャッターを下ろし、マンションとコンビニの明かりだけが煌々と、それから、これからどこにも寄り道をしないであろう人たちがぼんやりと、赤信号の横断歩道の前に立つ。私はその人々に溶けるように、するすると隙間を見つけて誰かの斜め後ろ、他の誰かには斜め前に立つ。交差点にいた車が止まり、音もなく青色に変わる信号を合図に、疲れた体をふらふ...
2021.01.30 02:40自分を好きになる方法というタイトルの、本谷有希子による小説があったなとこれを書いていてふと思う。本谷有希子の小説を最後に読んだのはいつだろう。『静かに、ねえ、静かに』のあと、新刊って出たんだっけ。読んでも読んでも、全てを覚えていることはできない。それがたまに、私を少しだけ悲しませる。makes me sad.年末に、自分の持ち物と部屋を整理した。従妹たちに譲る服を選別し、あとは衣装ケースをひっくり返してゴミ袋二つ分の...
2021.01.21 14:38嫉妬の焚き火で暖でも取ってろ自分より年下の人が才能に満ち満ちていたり、私よりも教養深かったり、思慮深かったり、そして実際成功していて、光を浴びて、喝采の中にいるのを見ると、私の心は嫉妬で燃える。自分より年下の人の才能や教養や思慮深さを羨むとき、私はその人になりたかったと心底思う。その人として生まれたかったし、その人の人生を生きたかったと、自分の人生全てを棚に上げて、いつもいつも、心底思う。年下でなくても、私はいつも、比べる相...
2021.01.20 13:44君と鏡越しに出会える日まで「今日はどんな感じで」「これから仕事が忙しくなるし、ちょっと気合い入れたいんで、なんかアナーキーな感じにしてください」そう言うとヨシカワさんはしばらく「うーん」と唸り、首を傾げ、襟足ばかりが伸びた私の髪に手櫛を通し、それから手をいっぱいに広げて私の頭の形をいろんな角度から眺め、耳に少しかかった横髪をなんとなく持ち上げて、天井を見上げた。それからヨシカワさんはその姿勢で5秒ほど固まり、何かが「降りて...
2020.12.19 06:17ひだりて(2013.1) 小学2年生。9月のはじめ、祖父が危篤に陥った。私たち姉弟は夜中に叩き起こされ、車を飛ばして病院へと向かった。病室に着いてみれば、そこには親戚が勢ぞろいしていた。一度も話したことのない人もいれば見たことすらない人もいた。そんな人たちに囲まれて、祖父はしずかに、しずかにそこに横たわっていた。私には、一体何が危篤なのか理解できなかった。何故この人たちはこんな夜中にじいちゃんのもとにわざわざ集まっている...
2020.12.13 12:56ハラユク乾燥肌だと言われたので、薬局に行ってボディークリームを買ってきた。まるいプラスチック容器に入ったそれは、青い蓋を開けてみればどぷんとたっぷり入っていて、私はそれを、お風呂上がりに、遠慮なくごそっと掬い取っては全身にべたべたと、がしがしと、塗りたくる。お腹、腰、デコルテ、太もも、両腕、永遠にも無くならなさそうな量のクリームを、贅沢に掬い取っては塗りたくる。べたべたと、がしがしと、無心で。8年前、オー...
2020.11.22 02:20エレナの行き先私たちが住んでいた学生寮は地下1階にランドリールームがあり、コインランドリーでよく見るような横置きの洗濯機が数台並んでいた。いつも鍵が開いていて、私はここで数回下着を盗まれた。洗濯機の中を開けて、下着の入ったネットをわざわざ見つけ出し、器用にパンツだけを盗んでいくとはご苦労なことだった。泥棒のせいで私の下着はあっという間にストックがなくなり、H&Mで安い下着をまとめ買いさせられた。純然たる無駄な出...
2020.11.20 13:56鐘を鳴らして、両手で私の祖母は、私が産まれて、私の「手」に一目惚れをした。「なんて綺麗な手えした子けねって、顔も見んとずっとあんたの手ばっかり見とったわ」夢見がちで時折思春期の少女のようなことを言う祖母は、幼い私に繰り返し、繰り返し、産まれたばかりの私の手がどれほど美しかったかを、それがどれだけ祖母の心を捉えて離さなかったかを、うっとりと、まるで私が産まれた病院を訪れたあの日奇跡に立ち会ったかのように、夢を見ているよ...
2020.11.20 11:13Life is beautiful (2015) 魚津に帰省している間じゅう、言葉はどこが引き受けるものなのかということと、わたしが捨て置いてきたものたちと、流れた歳月のことをずっと考えていた。 言葉について。わたしは、19を目前にしてこの町をひとり出て行くまでは、この町の言葉を話していた。周囲もみんなこの町の言葉だった。高校生よりも、中学生よりも、小学生よりももっと前、わたしの身長がまだ1メートルにも満たないような本物の子供だったときは、自分...
2020.11.20 10:58光が降る (2015)1. 高校2年のときに買ってもらった紫色のショルダーバッグに一泊分の着替えだけを詰めて、左手には手土産として適当に買ったバウムクーヘンを提げて、それだけの荷物で、特急を下りた。改札を抜けると弟が迎えに来ていて、ふたりで車に乗り込んだ。「ジジイは元気なんか」「元気じゃないからうちら来たんやろ」 車の中にはふたり分の憂鬱がしずかに満ちていたけれど、日の落ちゆく町の向こう、絵のように聳える故郷の山々を見...