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日本海側の小さな町には町を飲み込むほどの大きな海があり、穏やかな春の日には蜃気楼という幻を見せてくれたりするものの、常に海は鳴り響き、海鳥は落ち着きなく海面を飛び交い、波に打たれた石たちは全てまるく削り落とされ、波が引くたびにがらがらと音を立てる。反対側の立山連峰から昇ってくる太陽はこの海へと落ちてきて、遠く、遠くに赤い火種を、蝋燭の火のような赤い火種を揺らめかせながら、太陽は海に溶け、海は太陽を飲み込み、光源がいなくなってしまった空を毎日悼む。どれだけ天高く昇った太陽であろうとも、時間が来れば必ず、私の町の海を求めるように、緩やかに落ちてきて、互いに手を伸ばしあうように、手を取り合うように、抱き合うように溶け合って、水平線の境界を揺らめかせて、毎日静かに、息を引き取っていく。太陽と抱き合い飲み込んだ海は、残り火を残す世界に、変わらぬ波音を響かせる。弔いの波音。

私の生まれた町には海がある。私は、波音響く小さな町で、人間よりも、町よりも、山よりも、大きな海が佇む町で生まれ、18歳までを育った。


 海にも種類がある。観光地になるような海、それは青く透き通っていて、眩しい砂浜を持っていて、そしてゆっくりと深くなっていく、もしくは遠浅の海。埋立地を作れそうな海、それは波も穏やかで、あまり天気に左右されない海。そしてこの町の海。基本的に荒波。遊泳禁止。防波堤のすぐ向こうはコンクリートもしくは砂利。そして捨てられ打ち上げられた、見渡す限りのゴミ、ゴミ、ゴミ。青色というよりは、濁った質の悪い翡翠のような色。波打ち際の向こう側にはテトラポッドの群れ。羽根を休めるカモメたち。遠く、遠くに浮かぶ漁船と運がよければ蜃気楼。(世界中探しても数か所でしか見られないとかどうとか、この町は精一杯自慢しているけれど正直僕はまだ一度も見たことがない)

 海水浴に出向くような海ではなく、生活の一部としての、当たり前になってしまった海。

 それでも、家を出て細い道を下り、突き当たりで開けた視界と目の前の水平線と、全身を突き刺してくるような波の音には今でも一瞬足が竦んでしまう。

 海はいつもそこにある。ゴミを食おうと、鳥を食おうと、人を食おうと、食ったことすら気づかないような広大さで海はいつもそこにある。

 ただ、そこにある。

(『ミニチュアガーデン・イン・ブルー』)


海はただそこにある。そこにあって人間を顧みることはない。人間が生きていることも、町が営まれていることも、きっと何にも興味がないままで、毎夜落ちてくる太陽だけを待ち、そこにある。

私は家を出ておよそ20分ほどを歩き、水平線と波音だけにそぎ落とされた世界に行く。私の町は海道をランニングコースに整備していて、そこを歩けばジョギング中の人たちと何度もすれ違う。誰もが目を、耳を、海と波音でいっぱいに満たして、走っていく。私はその背中たちを目を細めて見送る。私は堤防の上に座り込み、吹き寄せる風に帽子を押さえて、真正面から海と向き合う。打ち寄せる白い波を見ている。透明な波の下で揺れている石たちを見ている。テトラポッドの上で羽を休め、海面に脚をつけながら飛ぶ海鳥たちを見ている。水平線のほど近くに佇んでいる小さな漁船の影を見ている。蜃気楼を、いつも探している。

海は私に気づかない。堤防に一人座り込んでじっと自分を見ている小さな人間に思いを馳せることはない。私の視線は海面に反射して、揉まれて、揺らめいて、消えてしまう。

それでも私は、私の町の海を訪れずにはいられない。私の存在を、きっと私の生涯ずっと認識することのない私の町の海を。




私の生まれた町は富山県の東側にあり、その富山県と新潟県のちょうど県境にある海は親不知と呼ばれている。

切り立った絶壁に打ち付ける海で、かつての旅人はその崖にしがみつきながら、荒波に体を濡らして、死を間近に感じながらその海を通行していたという。母は子を顧みる余裕がなく、子は母を顧みる余裕がないことから「親不知」という名前がついた海だ。

かつての道路工事においても、この海は北陸道最大の難所だと呼ばれていた。この絶壁に道を通すということ。少なくない人が命を落としながら、道を通した歴史があるということ。

この海には「親知らず子知らず」という合唱曲がある。父のもとへ、この海を通って帰ろうとする母子がこの親不知の波に飲まれて命を落としてしまう嘆きを歌った曲だ。


荒磯の岩かげに

苔むした地蔵が

かすむ沖をじっと見つめている

子を呼ぶ母の叫びが聞こえぬか

母を呼ぶ子のすすり泣きが聞こえぬか


悲しき人を

さらに悲しみで追いうちするを

人生というか

悲劇に向かっていどむ喜劇の運命を

神はにくむか…

(「親知らず子知らず」)



荒波で人を食い荒らし、幾多の命を海に沈め、今なお絶壁に打ち付ける海は悲しみに満ちている。悲しみと怒りが降り積もり、波がまたそれを飲み込んでいく。ここに人の、あらゆる感情は積もらない。全ては親不知とまで名付けられた海の波が飲み込んでいく。ここに人はいない。人は、海を前にして圧倒的に無力だ。

けれどそれは私の町の海と、根源的に何も変わることがない。親不知の海も私の町の海もひとつながりの、同じ海だ。人を人とも思わない、ただそこに、圧倒的にそこにある、人のあらゆるものが及ばない深い深い海だ。




海について語るとき、海について私の中にあるものを心から取り出そうとするとき、それはとても困難だ。私の意識に常にある故郷の海を思うという行為を語ることはとても困難だ。

海への感情を、あらゆる言葉を使って表そうとするとき、結局は、私は愛そのものを見に行っているのかもしれないと思う。海は愛よりも深い。愛よりも深い海は、それは、愛そのものなのだ。

家を出て30分歩き、防波堤の上に座り込んで私の町の海を眺めるとき、沈みゆく太陽を待つ親不知の海岸に立つとき、私の中には何もないと感じる。私の感情は、観念は、この精神に宿るそばから打ち寄せる波がそれを持って行ってしまう。海岸の石をさらっていくように、かつて絶壁を渡ろうとする旅人をさらっていったように、海岸に佇む私に手を伸ばし、私の肉体を貫いて感情だけを静かにさらっていく。

海を前にして私は、空っぽになる。中には何もない、ただの肉体になる。目と耳だけが眼前の海を捉えて後には何も残らない、がらんどうの身体になる。

見えるのは海だけ、聞こえるのは波音だけ。それだけの、がらんどうの私。


海への感情を、様々な形で足元に残してきた。私の生まれた町にあの海がなかったなら、私は私の10代を海への詩作に向かわせなかっただろうし、20代を20万字の小説に捧げることはなかっただろうし、同郷の友人とともに楽曲を作ることもなかっただろう。私の創作の原点には私の町の海があり、それは今も変わらない。今も脳裏に浮かぶ新しいイメージは、あの海の町に生きる少女たちだ。

海は全ての源だというのはあまりに手垢のついた言葉と思いながら、私は30代になっても、故郷の海を思わずにはいられない。空っぽの私を、私をがらんどうにさせるあの海を、それがなくては私は私を保っていられなかったかもしれないと思うほどのあの海を、私は。



どこにいても、この先私がどこに移ろうことになっても、私は荷物に海を入れていく。

私が死んだら遺灰を海に撒いて欲しいというのはあまりに感傷的でロマンチシズムに溺れたださい願望かもしれない。それでも私は、いつか私が死んだとき、たった一欠片の骨でいい、私の町の海へ投げ入れてくれたらそれを最期の、そして心底の幸いと思う。



「万物は流転する、って、言うじゃん」

 陸が言った。

「倫理?」

「そう。ヘラクレイトス」

「万物の根源は、火」

「それも、ヘラクレイトス」

 そこで陸は立ち止まり、今まさに水平線へ足をつけようとしている太陽を指さした。

「太陽ってことだよね、それは」

 僕と陸は、そこで太陽が沈みゆくさまをじっと見ていた。眩しさと遠く離れていてもわかる熱さに目が焼けていく。太陽と僕たちは見つめ合ったまま、太陽だけがゆっくりと海に迎えられていく。

「今日の太陽と、明日の太陽は違うんだね、きっと」

 毎日、違う太陽の下で生きていた。

 だけど海だけは、と僕は思う。この海だけは、昨日も今日も、そして明日もずっとこの海だと思うのだ。波の様子が違っても、凪いでも、荒れても、この海だけは、この町の海だけは、ただこの町の海だけはここにある。

 だから、別に悲しくはないのかと思った。太陽が沈んで気温が下がり、この命の温度が冷えて行っても、四季の巡りに身体を置いても、

 この海が全部を持って行ってくれる。

 世界の中で陸と出会った。偶然、出会っただけだ。そして、当たり前のように愛しただけだ。過ごしただけだ。世界は流転し、その中で、ただ生まれて、出会っただけだ。

 海とともにありながら。

(『はばたく魚と海の果て』)



ゆれる列車 頬杖の窓に 雨が流れる

まなざしの先 水平線


耳に残る きみの波音

今なお響く きみの音楽

(『birthday』)




「わたし、彼女のこと大好きなんですよ。こういう、夢を追いかけている子が大好きなんです」


多分秋で、ケーキがおいしい店だった。というか、ケーキ屋に併設されていたカフェだった。

同期のシンガーソングライターのライブの前座として一人芝居をすることになったからと、空席を出すわけにはいかないからと、土下座ばりの蝶子の頼みを聞き入れて私は神戸元町の坂をのらくらと上がり、会場になったカフェの隅の席に腰を下ろしていたら程なくして蝶子がやってきて私の向かいに座った。「すごいな」彼女が言う。
「何が?」
「いや、わざわざそこ選んで座ったんがすごいなって。あたし、この席から芝居始めるんよ」
「あ、そうなん。休憩しに来たんかと思ったわ」
「ちゃうねん、紛れ込んでんねん。ていうかめちゃいい色の口紅やな」
「あ、使う? これやけど」
私は鞄からアナスイの口紅を取り出してテーブルの上に置いた。けれどそれを蝶子が手に取ったかどうか、彼女がそれを彼女の唇につけたかどうか、もう私は思い出せない。


蝶子の20分ほどの一人芝居はつつがなく終わり、主役である彼女の同期がマイクを持って、蝶子に拍手をしながら登場する。そうして彼女は蝶子のことを「夢を追いかける子」と表現した。「そういう子が大好き」なんだとも、ショートカットにワンピース姿の彼女は目を細めて笑った。蝶子に向けられる拍手と口笛。私ももちろん拍手をする。クラシックバレエ上がりの蝶子はふわりと一回転してから深くお辞儀をして、お店の奥へと去っていった。



夢を追いかけている子。

蝶子がいなくなれば知り合いなんて一人もいないライブの帰り道。当然蝶子と一緒に帰れるわけでもない、私はCD販売の列の横をすり抜けて早々に店から出て、西日の海に浸かったみたいな神戸元町の坂道を、今度はすったすったと後ろから押されるように歩いている。

夢を追いかけている子。

そうね確かにそうだろうね。蝶子もあなたも、私のように何かを見限って就職活動に身を投じることもなく、これからも音楽なり演劇なりの道を歩いていくのだと決めたあなたたちは、夢を追いかけている子、としか、私にも表現しようがない、だろうね。

だろうね。まあ、あなたたちが自分のことを、それから友達のことを、どんな言葉で表象しようとそれは全くあなたたちの自由だし、実際「そう」見えているなら「そう」表象して何にも、問題はないと思う。

夢を追いかけている子。

私はすったすったと坂道を下る。あっという間に駅まで戻ってくる。私は、さっき観た蝶子の一人芝居にも、それから始まったライブにも、特にあの曲がよかったなとも思わないまま、強いて言うなら内輪な空気のライブだったなと、それは私が全くの外野からやってきた人間だったからそう思っただけかもしれないけれど、だけど、あれだけ内輪の温かい空気でやれるライブならさぞ楽しいだろうなと、無表情に改札を通り抜けた。




冬にスタートを切った就職活動を4月の早々に終えて、内定者懇親会や研修も受けたりなんかして、卒業論文の準備をしながらも23歳の私は学生でありながら、社会人になるのを待つだけの人でもあった。

卒業後の行き先が約束されているというのはこの上ない安心感があった。この安心感があったからこそ、私は残りの学生生活を、さしたる不安を抱えることなく過ごすことができたと言ってもいい。それは就活を無事に終えることができた人間の特権でもあった。

同時に私の、就職するという選択は、それ以外の選択肢をふるい落とした。それこそ蝶子やその同期の彼女が選んだような、芸術の道へ賭けてみるという選択肢もその一つだったことだろう。

彼女たちと私とでは、確かに、根本的に違う土台に立っていた。学科で音楽なり舞踊なりを専攻していて部活でも軽音をやって演劇をやってという彼女たちでは大学3年生になった途端リクルートスーツを着て就活に身を投じるという選択の方が現実味がないものだっただろうし、その逆も然りで、部活では演劇をやっていてもこれと言って秀でた光があるわけでもなく、結局のところ学科での机上の勉強や語学の方が楽しかった私がいきなり演劇や文芸の道に賭けると言い出す方が突拍子もない。

私には私がこれから進むであろう道がなんとなく見えていた。少なくともそれは、就職せずに「夢を追う」という道ではまずなかった。作家になりたいという漠然とした希望があったけれど、だからといって就職せずにいきなり専業作家を目指すなんて向こう見ずにも程があると私は私を切り捨てた。
結婚の予定もない、家庭に入れと言ってくる彼氏もいない。私は、正社員になりたかった。



正社員を辞めることなく30歳にもなって、地元で画家業を続けている幼馴染と5年ぶりに再会してコーヒーを飲んだ。彼女は東京での個展を終えたばかりで、私はひとまずそれを労った。
「なんだかんだで画家業、続いてるよねえ」と私が言うと、彼女は「そうだねえ。でも毎回『辞めたいよー』って思いながら描いてる」と答えた。
「いや辞めて欲しくないよ」
「いや辞めないけどね」
「だってさ仮にじゃあもういいわ辞めるっつって辞めたとするじゃん。そしたらさ多分、この先ずっと『ああ自分辞めちゃったんだな』って思いながら生きてくことになると思うんだよね。多分そっちの方が、しんどいし悲しくもなると思うんだよね」
「そうかなあ」
「多分よ。だから私は辞めて欲しくない」
オーバーサイズのコーヒーを啜る。だけど私はあの時、一体どの立場から彼女にものを言っていたのだろう。まだ作家になりたい私が言っていたのか、もうほとんど諦めてしまった私が言っていたのか、諦めたとも思っていない、全て忘れてしまった私、会社員というアイデンティティしか残っていない私が言っていたのか。
あの時の私は一体誰だったのだろうか。




もう10年近く前の神戸元町での一日を思い出す。「夢を追いかけている子」と無邪気に蝶子を紹介していたあの子の笑顔を思い出す。

あの子にとって「夢を追いかけている子」というのは、自分のように音楽や演劇、とりあえず芸術、芸能の道を志す少数の人たちを観測しているのであって、就活なんていう自ら没個性の沼に進んで飛び込んでいくような「大勢」は含まれていなかっただろう。となれば私だって、彼女の観測外の人間でしかない。

だけど「夢を追いかけている子」って、何なんだろうねと、何のつもりであなたはそう言ってるんだろうねと、もっと踏み込むなら、何様のつもりであなたは人をそう判断してるんだろうねと、あの日の笑顔に、私は今でも問いかけることがある。



「あたしはあんたのそういうところが腹立つねん、蝶子。あんたは自分みたいに芝居とか音楽とかとりあえずなんていうの、そういう、就活じゃない道に行く子のことしか見えてへん。そういう子たちの方ばっかり見て、夢を追いかける子はやっぱり良いとか素敵とか、あんたはそう言ってんの。でもよ、あんたの全然見えてないところにおる人たちやってね、自分のできること考えて自分の将来考えて自分の手が届くくらいのささやかな、あんたにとってはささやかよ、あんたにとってはくだらんとかつまらんとか思うことよ、例えば何、家買うとか結婚するとか子供持つとか自分の子供の成長喜びたいとか安定してお金もらってたまに旅行出かけるとか、そんなんよ、そんなんやって自分の未来のことを思ってるわけやんか、でも何、あんたにとってはそういうのは夢じゃないんか? そういう、芸術とか芸能とか、あんたみたいな人にしか、夢は夢って言われへんのか? なあ蝶子、夢って何よ? あんたが言うてる夢って何よ? あたしは、就活してこれから会社員なるあたしは失格か? 会社員なって、その傍らにやりたいこと目指すっていうあたしは失格か? 蝶子、なあ、夢って何よ? 答えてみいよ、夢って何よ?」



そんな台詞を、いつか小説にしようと思っていた。けれどこの「夢」も多分、叶えないまま捨てるだろう。私に生き続ける「蝶子」と「私」の物語をいつか書きたかった。けれど今に至るまで形にならない。この物語で自分が何を言いたかったのかもほとんど忘れてしまった。違う、私が言いたかったことは朝井リョウが『何者』で先に書いてしまっていた。やられたなと思うより先に私と同じ気持ちの人が存在していたんだという喜びの方が足が速かった。私がわざわざ改めて書くことは何もないと思った。だからこの物語はきっと叶えられないまま捨てられていく。私より小説が上手な人に書いてもらえた感情の形はそのままで、それでいい。

朝井リョウだけじゃない、私が日々思っていることなんてほとんどBUMP OF CHICKENが音楽にしている。「得意な事があった事 今じゃもう忘れてるのは/それを自分より 得意な誰かが居たから」そう。「生活は平凡です 平凡でも困難です」本当にそう。「健康な体があればいい 大人になって気づく事/心は強くならないまま 耐えきれない夜が多くなった」わかる。「悲しみは消えるというなら 喜びだってそういうものだろう」そうだよね。「一人じゃないと呟いてみても/感じる痛みは一人のもの」そうなんだよね。
「壊れた心でも 悲しいのは 笑えるから」
なぜ私が書けなかったの。なぜこんなに鋭い人がいて、なぜそれを、享受するだけの人間でしかないの、私は。

なぜこの音楽や言葉を世界に発信したのが私ではなかったの。




企業を動かすひとつの小さな歯車に過ぎない存在に自ら嵌め込まれに行って、それでも人と同じや平凡は嫌だからと着飾って、奇抜な髪型にして、髪を染めて、休日になったらミニシアターに通って、本屋に行けば自分より若い作家の存在に嫉妬して、SNSを覗けばまた嫉妬してスマホを放り投げて、誰が見ているともわからない文章や小説を書いてはまだ自分は大丈夫そうと安堵する。そのくせ日々思うことは朝井リョウやBUMP OF CHICKENを間借りしているような、独創性も瞬発力もどうにも足りない。これが私。夢を夢とも観測できない他人の視野の狭さ浅はかさをいつまで経っても忘れられないままに蓋を開けてみれば結局「夢って何ですか?」

バーアッ、カ。だろ。
ダサいのはどっちだ。






瓦礫が、広がっているような気がする。


「夢って何よ?」何だろうねえ。私は瓦礫の上を歩き出す。かつて夢だと思っていたもの、蓋を開けてみればそうでもなかったもの、時間切れになって瓦解したもの、人には夢だと映らなかったもの、そういう、瓦礫の上を新品のスニーカーでざくざくと歩く。何だったんだろうねえ。私は足元に目を落としながらざくざくと歩く。歩くたびに瓦礫はばきぼき割れていく。こんなに全部が脆いのは、結局私が「そんなもの」だったからなんでしょうか。


「夢を追いかける」には体力がいる。気力もいる。だからこそ誰かを「夢を追いかけている人」と表象するのは、軽々しくやってはいけないことなのかもしれない。それこそ、将来の安定を投げ打って自分の道に賭けに出た人にしか、使ってはならない言葉なのかもしれない。


それでも思う。ざくざく靴を鳴らしながら足を取られながら私はむきになってでも歩く。自分が夢だと思っているならそれは夢でいいんじゃないの。だって悔しいから。

「捨てないのなら 違いますよ/持ち主がいるのなら 夢ですよ」

ほら藤原基央だって歌っている。そして私は結局間借りしている。間借りしながら私はしゃがみ込んで瓦礫を拾う。ひとつふたつ持ち上げてみて、形の綺麗なものをポケットに仕舞う。磨けばぴかぴかになるかもしれない。ならなかったらまた拾いに来るかもしれない。だって悔しいから。悔しさを食べてここまで生きてきたから。だから多分生きているうちはずっと、悔しいから。



瓦礫散らばる部屋でひとり、黙り込んで書き上げる。
自意識ばかりががなり立てる愚にもつかない話に時間をかけすぎだ。
もういいや、お茶を入れよう。愚にもつかない私だが、今日もまだ大丈夫のようだから。



最近は仕事がたくさんあり、会社を出る頃には帰路の飲食店は軒並み電気を消してシャッターを下ろし、マンションとコンビニの明かりだけが煌々と、それから、これからどこにも寄り道をしないであろう人たちがぼんやりと、赤信号の横断歩道の前に立つ。私はその人々に溶けるように、するすると隙間を見つけて誰かの斜め後ろ、他の誰かには斜め前に立つ。交差点にいた車が止まり、音もなく青色に変わる信号を合図に、疲れた体をふらふらと操縦して歩き出す。誰も寄り道をしないこの夜に、私もまた、まっすぐに自分のマンションへと帰る。

玄関を開ければ朝と何も変わらない私だけの部屋がしんと出迎える。誰も訪れることのない私だけの部屋。靴を脱いでミニキッチンの横を通り過ぎて、私だけの部屋にカバンを落とす。


「ただいま」


私の声は物に溢れた部屋に吸い込まれて、この部屋は返事をしない。部屋着に着替えてすとんと座り込む一人用のソファ。

テレビもつけず、音楽もかけず、ただ卓上時計の秒針だけが、かちかちと音を立てる。静寂の雪が降り積もるスクリーンセーバーあるいはスノウドーム。何も言うことがない。私は私の一日の終わりを看取る。

私が看取った音のない一日が部屋のそこかしこに積み上げられて、その重みでここはゆっくり沈んでいく。沈んでいく速度を、沈んでいくことそのものを、沈む部屋にいてもの言わぬ私を、たった一人でいる私を、誰かが孤独と名付けるならそうなのだろう。疲れて帰ってきた私に、荷物になるような言葉など一つもないのだから。






孤独というのは、常に、一人でいることを自分で選び取るものです。「寂しい」と思うことはありますが、それは感情です。孤独(ソリチュード)と寂しさ(ロンリネス)は全く別物です。

(イーユン・リー)



独りが好きだということと、寂しさを抱えて生きることは矛盾しない。私は独りが好きで、そして、寂しい。

独りでいるのが好きで、一日を誰とも会わなくても、誰とも話さなくても平気。

だけど私は多分、いつも、ずっと、寂しい。

本当にずっと寂しかったのだろうか、と考えてみる。私はかつて、ここまで自分の寂しさに自覚的であったことがあっただろうか。私はいつからここにある、この寂しさに、気づいたのだろうか。

そうして考えて、明かりの落ちた街の光景が瞼をよぎる。それから、いつかは燦然と輝いていた街の光景を思い出す。煌めく真夜中の繁華街、雑居ビルの隙間を突き抜けていく笑い声、綿の上を歩くような足取り、熱い頬、酩酊の多幸感。

そうだった、私は、数え切れない夜たちに、私の寂しさを掬い上げてもらっていたのだ。


私の寂しさは光っていた。夜の街の明かり一つ一つに私の寂しさはあった。仕事を終えて、同僚の皆で会社を飛び出した私の髪を揺らす風に、私の寂しさはあった。川に沿って吹く風に私の寂しさは鳴っていた。ビルの群れから続々と吐き出されてきた人たちに埋もれて私個人が消え去っていく感覚に、私の寂しさはあった。

私の寂しさはお酒になり、美味しい料理になり、掠れた歌声になる。

私は私の寂しさを、けらけらと笑いながら食べて、飲んで、自分の栄養にしていたんだ。

全ては循環して、寂しさは寂しさと名前を与えられないままに私の中をめぐっていた。それが寂しさであると気づいたところで、明日の私への栄養となるならそれでよかった、それが機能していた日々があったんだ。今ではすぐにその感覚を思い出せなくなってしまった、消えてしまってからまだ1年と少ししか経っていない、かつてあった日々。


それがなくなった今、私は、ずっと寂しい。

黙り込んだ寂しさと向き合っても、私の口からは何も出てこない。ひとつとひとりが向かい合って、黙り込んでいるその部屋は沈んでいく。海に浮かぶ方舟みたいで、行き先もわからないままゆらゆらと揺れているばかりの、それでも少しずつ沈んでいくのを、ひとつとひとりが窓に目をやる。

沈んでいくねと、目に見えることだけをつぶやいて。そうだねと、返ってくる言葉を私は待たない。



寂しさはめぐる。一度は街の中に煌めいて、一度は風となって私の髪を揺らした寂しさは、結局私の五感を通して私のもとに戻ってくる。

人に手渡して、楽になったはず、体からいなくなったはずの寂しさも、その人をこの目に映すことで、声を聴くことで、体に触れることで、私のもとに戻ってくる。

そうして寂しさはめぐる。



今の、外出自粛や緊急事態宣言下の時短営業、帰路につく頃にはコンビニの明かりが一番明るく見えるような、仕事がたくさんある日々にあっては、寂しさがこの体をめぐる速度だけが音もなく上がっていく。街にも出られない、人にも会えない私の寂しさはただ、私の中で純度ばかりを上げて、何の色もなく透明になって、私に薄い膜を張る。

寂しさに包まれた手、寂しさの膜がかかった目、それを通して触れるものと見えるもの。

私は私の体が寂しさの膜に包まれていることを今になって知る。あまりにも寂しい、と言えば陳腐で、そんなに切実で悲しみがこもった感情じゃないと私は笑うだろう。今まで気づかなかっただけ、そして、決して一時的なものではないこともまた理解している。私はこの膜に守られて生きてきたんだ。


いつか、喜びも悲しみも怒りも、人の体から何もかもいなくなったとき、それでも最後まで残るのは寂しさなのかも知れないと思う。

ああ結局は独りだったと、ひとりで生まれてひとりで死んでいくのだと、誰の人生とも交代できなかったし、誰にもこの人生を代わってもらえなかったと、結局は私ひとりの人生だったと、いつかの夜に目を閉じるとき。



今このときの寂しさの形は、ずっと覚えていられるかも知れない。

感染症ワクチンがすべての人に行き渡って、終息宣言が出されて、毎日のマスクも要らなくなり、どこへ行っても洗礼のように迎えてくるアルコール消毒液もなくなり、寄り道をする人が増えて、夜がまた長くなっても。

見える景色がすべて、寂しさの薄い膜越しのものだったことを。

寂しさが私の中で、血や水のように、すごい速さでかけめぐっていた感覚のことを。



私は、ひとりでいることを選びとって、ここにいると思う。ひとりの時間がなくては狂ってしまうだろうと思う。それは社会人になったとき、私が自分で決めたことだった。どんなに同期同士の、同僚同士の付き合いが大事だと言われても、私は私の時間を守る。私は私の休日を、仕事以外の会社の行事に捧げるなんて死んでも断る。

そうして社会人になってからの6年間を生きてきた。私は孤独と寂しさに生かされてきた。守られて生きてきた。私に何よりも優しかったのは、私の孤独であって寂しさだった。きっとこれからも、ずっと、そう。私が明日を生きていくための。




「あなたは、ふとしたときに少し寂しそうな目を見せる」

そう言ったあなたへ、ありがとう。だけどそれでいいんだ、私は十分に生きていて、十分に守られているから。




綿矢りさは『蹴りたい背中』で「さびしさは鳴る」と書いた。私なら「さびしさはめぐる」と書くだろう。苦しいけれど、それは決して悪いものではないと書くだろう。

都会の街の明かりが落ちて、星が見えるようになった。私の寂しさは大気圏を超えた。力強く輝くシリウスの光に、私は私の寂しさを見る。夜空を見上げて、明日も私はひとりで帰路につくだろう。



というタイトルの、本谷有希子による小説があったなとこれを書いていてふと思う。本谷有希子の小説を最後に読んだのはいつだろう。『静かに、ねえ、静かに』のあと、新刊って出たんだっけ。

読んでも読んでも、全てを覚えていることはできない。それがたまに、私を少しだけ悲しませる。makes me sad.




年末に、自分の持ち物と部屋を整理した。

従妹たちに譲る服を選別し、あとは衣装ケースをひっくり返してゴミ袋二つ分の服を捨てた。中学生から着ていた服がケースの奥に紛れ込んでいたり、クローゼットの隅に放置したままにしていた就職活動に使っていたシャツたちは揃って平等に黄ばんでいたり、シミがついてしまって着なくなったボトムスを押し込んでそのまま忘れていたり、私の服たちは全然管理が行き届いていなかった。

それぞれに、これを着ていた日々の思い出があって、ゴミ袋に入れる前にひとつひとつにお礼を言う。ありがとうね、あの時助けてくれて、ありがとうね。きっと忘れていくけれど、愛していたよ。

服を捨てる行為にはいつも悲しみに満ちた痛みが伴う。それでもいつかは別れが来る。人と別れるように、私は服と別れていく。

それからシーツを新調して、新しい毛布を買った。ルームシューズとルームソックスも買った。マスクを嵌めて駅ビルに出かけて、足を冷やさないためのレッグウォーマーとタイツを買った。ニット帽も買った。これらの買い物が積み残されて、カードの引き落としがもうすぐやってくるのを今は恐れているけれど、とにかく私は、冬から自分を守るために、あれこれと、物を買った。

普段はシャワーで済ませるところをちゃんとお風呂に入った。ボディクリームも湯上りに欠かさず塗るようになった。



自分を守る、ということが、よくわからないままにここまで生きてきてしまったなと思う。

未だに自分の体や健康については、あまり興味を持てない。電気代も水道代ももったいないから暖房もできるだけつけたくないしお風呂もあまり気が進まない。そして何より、食べたくない。

自分に厳しいことばかりを何年も言いつけて、ここまで生きてきたのだと思う。お金もったいないでしょ、太るでしょ、運動もろくにしないくせに食べるなんて我儘でしょ。

そんな声ばかりに囲まれて生きてきた。カロリーをいちいち気にするようになったのは大学生になってからで、そこから食べることへの選別が始まって、それから私は転がるうちに小さく軽くなっていく石みたいに、静かに静かに、痩せていった。


社会人になって少し持ち直して、学生時代よりは多めの体重で毎日を過ごした。

けれど今度は、何があっても学生時代の自分のことを忘れるものかと足掻く自分と毎日をこなしていかなくてはならない自分との間で板挟みになって、落ちていくのを自覚しながら薬に頼ってまで小説を書き、本を読み、映画を観ていた。

それは自分を守るようでいて、自ら壊していく行為だった。


壊して、壊して、壊し尽くされた私は半年間機能停止に陥った。仕事を休み、ただ無感情な海の中を漂っていた。何を見ても、聴いても、読んでも、心はしんと静まりかえり、何を思うこともなかった。そんな日々があった。




無感情な海から上がり、仕事の世界に戻ってきて4年が経った。

さすがに、薬を飲んでまで長い小説を書く自分には戻れていないし、戻れるかどうかもわからない。

ただこの4年間を生きてきて、最近になってようやく、「もう無理はできないのだ」ということが少しずつわかってきた。無理がきかない心身に、私自身が作り変えてしまったのだ。一度、自ら壊し尽くしたことによって。



作り変わった私がいて、その私をどう扱えば良いのか、私もまた、今でも考えあぐねている。

変わらず、料理も食事も好きじゃない。全てが錠剤の形になって、それで一日の栄養が丸ごと摂取できるならどんなに良いだろうと思っている。そんな日がいつか来てくれないだろうかと半ば本気で思っている。

何かが起こるとすぐに何も喉を通らなくなるし、仕事が忙しくなれば夕食は会社の売店で買う130円のバウムクーヘンで1ヶ月を過ごすこともある。そしてそれは、私にとって全く平気なことでもある。だから結局するすると痩せていく。痩せていくこともまた、私にとって全く平気なことだ。


けれど少しは、自分に何か良いものを与えてやるのも悪くないんじゃないかとここ数年で思うようになった。

使い古したシーツにくるまって眠るのも、どうでもいいからで、毎日をバウムクーヘンで過ごすのも、どうでもいいからで、電気代や水道代を優先して部屋を寒いままにするのも、湯船に浸からないのも、自分の体がどうでもいいからだった。

けれどそうやって自分をどうでもよく扱っては、体が痛んだり、冷えたり、結局不快なものを抱えたままで仕事に向かわなくてはならなくなってしまう。私の毎日には否応なく仕事という時間が組み込まれていて、それが平日の大半を占める。その大半を占める時間を、痛みや凍えの中で過ごすのは、何だかあまりに馬鹿らしい。

馬鹿らしいのだ、どうでもいい体にどうでもいいことで日々の足を引っ張られるのが。



ほとんど好奇心に動かされているようなものだけれど、フェイシャルリフレクソロジーを試してみたり、そこでセラピストの方から受けたアドバイスや、紹介してもらった商品を少しずつ買ってみている。

買うことにも本当は抵抗がある。洋服や化粧品にお金をつぎ込むのは厭わないのに、自分の心身に作用する日用品を買うのはとても苦手だ。けれど、とりあえず勉強代と思って、少しずつ買って、試してみている。

年末に部屋の整理をして色んなものを買い換えたのは、その勉強代と思う気持ちが少しずつ大きくなってきたからのことだったのかなと、ふと思う。

新しいシーツはさらさらした触り心地で、新しい毛布はしっかりした厚さで、新しいレッグウォーマーはごく自然に肌に馴染んで柔らかくて暖かくて、私は毎日すこんと眠る。




子供の頃、自分は絶対に40歳で死ぬだろうと思っていた。

今は、40歳で自分ひとりのための小さな部屋を買うのが目標だ。

もちろん、これから感染症に罹ったり、どうしようもない病気が見つかったり、不慮の事故に遭ったり、精神の方が先に白旗を上げたりして40歳で死ぬ可能性は残っているし、40歳を待たずに死ぬことだって考えられる。

けれど、子供の頃に漠然と感じていた「自分は絶対に長くは生きない」という予感は年を追うごとに薄められ、かつてきっぱり決めていた40歳という年齢まであと10年、というところまで来てみて、いや、案外、生き延びているような気がするのだ。

私の人生は、思うほど短くはないのかもしれない。短くないのなら、予感を超えて生きる分だけ、私はひとつしかない自分の体をもう一度壊してしまうことのないように、注意深く、扱ってやらなければならないのだろう。

自分の面倒を自分で見ることの責任の重さがやっと今、感じられる。30年経って、やっと。




自分を好きになる方法は、正直わからない。

今、好きなのかどうかもわからない。ただ、私は私以外にはなれないという事実だけは、一分一秒ここにあって絶対に揺るがない。

病の手前で揺らぎ続ける精神と、名前がつく手前の拒食と、痩せた体を持ち物にして、残りの10年とそれ以上の年月を生きていく。できれば怒りや悲しみは持たされても早々と土に埋めて、喜びと幸福は記録して、何度でも思い出して、忘れないように。

それだけなのだろう。どうせ一人しかいない私ができることなんて、それだけのことに過ぎないのだろう。

朝が来る。休日はいつも午前中はベッドから出られないような私が、今日は7時半には起きて、洗濯をして、これを書いている。これから昼食の準備をして、午後になったらマスクを嵌めて買い物に行って映画を観て帰る。

透き通った空が見える美しい冬の日だ。これもまた、私だけの年月の一部なのだ。



自分より年下の人が才能に満ち満ちていたり、私よりも教養深かったり、思慮深かったり、そして実際成功していて、光を浴びて、喝采の中にいるのを見ると、私の心は嫉妬で燃える。

自分より年下の人の才能や教養や思慮深さを羨むとき、私はその人になりたかったと心底思う。その人として生まれたかったし、その人の人生を生きたかったと、自分の人生全てを棚に上げて、いつもいつも、心底思う。

年下でなくても、私はいつも、比べる相手を無意識に探し出しては勝手に嫉妬している。この人になりたかった。この人の目と耳と感性が欲しかった。私の存在がここから消し飛んで、あの人と、この人と、すうっと同化できたなら、どんなにいいだろう。

そんなことを、いつもいつも考えている。こんな状態になっているとき、私の人生は、私だけの持ち物であるはずなのに、その私自身にとって、いちばん、無価値なものになってしまう。




先日、芥川賞と直木賞の受賞者が発表された。

芥川賞を受賞したのは宇佐見りんさんで、まだ21歳、大学2年生だという。

正直、芥川賞候補が発表されたとき、宇佐見りんさんだけは受賞してほしくないと思っていた。それもひとえに、ただただ、彼女が若かったからだ。私よりもずっとずっと若かったからだ。私よりもずっとずっと若いのに、本屋に立ち寄るたびに著作が平積みにされて、絶賛のコメントが入った帯が巻かれたその綺麗な本たちをすでに2冊も世に出していることに、ずっとずっと、心を荒らされてきたからだった。

宇佐見さんの本を見るたびに気持ちがざわついて、私はまだ著作のどちらも読んでいない。

クズだ、本当にクズだ。今ここで私をクズと呼ばすして何と呼ぶだろう。私は年下の、ただ自分の才能を真摯に磨いてきた、私と全く無関係である女性に、一方的に嫉妬して勝手に心を火傷させていたのだった。

宇佐見さんがもしも芥川賞を取ってしまうなら、私はしばらく心をじくじくさせて過ごすことになるだろう。そうなってほしくはなかった。私は私の日々を平穏に過ごしたかった。もうこれ以上この人に心を荒らされたくなかった。

けれど心のどこかでは、きっと、この人が受賞するのだろうなと思っていた。この人こそ、今、選ばれるべき人なのだろうなと、芥川賞候補が出揃ったときからずっとぼんやりと、確信していた。

そして見事に、宇佐見さんは芥川賞を取った。綿矢りさ、金原ひとみに次いで、史上3番目に若い受賞となった。速報がtwitterに流れてきたとき、そうだよねえと、呟いていた。



私は宇佐見さんを何も知らない。

けれど、プロフィールや受賞スピーチの文字起こしを読むと、ああこの人は、小説家になるという夢にまっすぐ脇目も振らずに歩いてきた人なのだと実感する。一直線に、これだけを見据えて、これしかないと固く信じて、ここまで生きてきた人なのだろうと思う。

大学では国文学を専攻しているというプロフィールにも、目眩がするほど、そのひたむきさを感じる。目眩がするほど、それは眩しい。一直線に歩いてきた人は、それだけで私にはとても眩しくて、目を開けていられないのだ。







大学2年生って、自分何してたっけと思い返してみれば、勉強を放り投げて朝から晩まで演劇の世界に住んでいて、体に限界が来て入院して、ただ生きているだけなのに体調は悪化して、つまりはボロボロで、あらゆることがわからなくなっていたときだった。そもそも自分は何をしたかったのか、どうしてこの大学にいるのか、いる意味はあるのか、どうして今こんな状態になっているのか、そういう、ありとあらゆることが、私の中で混乱していた。


それでも、これじゃだめだと一度演劇から離れて、高校生の時からの夢だった交換留学へ志願した。第二外国語程度でしか学んでいない拙いドイツ語で、それだけを携えて、オーストリアへ留学した。それが大学3年生の夏だった。

オーストリアに来て半年経った頃、別の大学からの日本人留学生と知り合った。彼女は「一直線に」来た人だった。ドイツ語学科で、日本できちんとドイツ語を学び、難なく話せるようになってから現地にやってきた人だった。そして、私よりも年下だった。

彼女と初めて食堂でごはんを食べたとき、私は自分の経歴を簡単に説明して、「いや私なんて第二外国語でドイツ語やってただけで、あとは部活ばっかで、勉強とか全然してなかったからね〜」と、敢えてからりと言った。こんな私でも半年生きてこれたんだから大丈夫だよと伝えようとしたのかもしれない。

けれど彼女は少し蔑むような顔でこう答えた。

「いや、勉強しなくても留学できるって、逆にすごいですよね」



それからどうやって彼女と別れて、いつも立ち寄るカフェにたどり着いたのか、全く覚えていない。

私はいつものようにコーヒーを注文し、壁際の席に座り、ラップトップを開いてフリーwifiを繋ぎ、コーヒー片手にやってきた店長にお金を払い、しばらく呆然として、そして、涙が止まらなくなってしまったのだった。

悔しかった。惨めだった。私が大学で演劇に埋もれていたこと、勉強よりも優先していたこと、それをも越えて、私がここに来るまでの私の歴史何もかもが無意味で無価値なものだと言われたようで、悔しくて悲しくてそして惨めで、苦いコーヒーを飲みながら私は信じられないほどに泣いていた。自分はこんなに泣ける人間だったのかと感心するくらいに、よく泣いた。ざあざあと泣いた。声も上げずにひたすら泣いた。周りを囲むオーストリア人がちらちらと私を見ずにはいられないほどに、私は泣きまくったのだった。


寄り道ばっかりしてきたから今お前はこうなんだと、私を囲む全員に指をさされているような気がしていた。







思えば私は寄り道を繰り返しているし、移り気な私はふらふらと、現在をも漂流している。

最初は漫画家を夢見ていたし、その夢が覚めれば次は字幕翻訳家に憧れて英語を勉強してみたり、またその夢が覚めれば次は演劇に身を投じてみて劇作家も良いなと思ったり、でもやっぱり小説家になりたいと、そんな夢を燻らせているくせに会社に勤めて日々を疲れて、書いては消しを繰り返し、結局まともな長編一本も書き上げられないまま5年が経とうとしている。

私はずっと漂流している。今の自分が本当に、今でも小説家を目指しているのかそれもわからない。ただ毎日を働いて、寝て、映画を観て、本を読んで、するするとリボンの上を滑るように、生きている。

その傍らで、一直線に、これしかないと固く信じて歩いてきた人がいて、着実な結果を出し、喝采を浴びるというのは、それは真っ当なことで、然るべきことだ。

どうして嫉妬なんかしてしまうんだろう。積み上げてきた人生が、あなたと私でこんなに違うのに。

どうして嫉妬なんかしてしまうんだろう。あなたは真っ当に頑張ってきて結果を出して、それは祝福されるべきこと。何も完成させられなかった私が、あなたに何を思える資格があるというのだろう。



あーあ。私であることをやめたいな。

年下の人の才能に目が眩むとき、同い年の人の豊かな教養と思慮深さを目にするたびに、あーあ、私は無価値だな、なんて、投げやりに人生を放り出したくなる。

私だって20代で小説家になりたかったよ。なれなかった。これからも続いていくであろう長い長い会社員生活に、気が遠くなるばかりだよ。こんな予定では、なかったはずなんだけどな。



けれど今、こうして仕事を終えて帰宅して、急いでシャワーを浴びて、なんとか時間を作ってこんな文章を書いているのは、宇佐見さんの受賞を受けて心に火が点いたからに他ならない。嫉妬の炎は心を燃やす。火傷を負わせる。けれどそれはつまるところ、私の生の炎に他ならない。私の内側から燃え出して体を動かそうとするこの炎の燃料は、私よりずっとずっと年下の、聡明で、努力を重ね、才能を花開かせた女性の最高の結果に他ならないのだ。

諦めたくないよ。このキーボードを乱暴に叩きながら、頭の中で私の声ががなりたててドンドンと心臓をノックする。諦めたくないよ。諦めたくないよ。私はまだ、諦めたくないんだよ。大人気ない私が地団駄を踏んでいる。私だってそこに行きたい、行きたい、行きたいんだ。

寄り道したよ、確かにそうだよ、楽してきたよ、いつまでも移り気だよ、そんな私だったけど、留学して何が悪い。そんな私でいるけれど、諦められなくて、何が悪いの。



私が彼女の人生を生きられないように、彼女も私の人生は生きられない。

彼女は彼女以外の何者でもないし、私もまた、私以外の何者でもないのだ。

彼女のまっすぐな歴史があるように、私にも歴史がある。いびつでも、乱雑でも、互いに繋がり合えなくても、それが私の歴史なんだって、引き受けるしかないのだ。その上で、諦めたくないと叫ぶことは、私の心からの感情だ。



彼女への身勝手な嫉妬で、奮い立ってこれを書く。自分の小説を探しに行く。それから明日も会社に行く。今日を寝て起きて、本を読んで、会社に行く。働いて、また帰ってくる。

そうしていつか、彼女への嫉妬の炎が落ち着くまでずっと待つ。彼女の小説を読むために。心を込めて読むために。噛みしめて読むために。彼女の才能を食べるために。





綿矢りさと金原ひとみが芥川賞を同時受賞したとき、私は中学生だった。

インターネットで知り合った少し年上の女の子が、「あんなに若くても取れるなら、私にも取れそうな気がしてくる」と言っていた。

内心、何言ってんだと思っていた。取れるわけねーだろと思っていた。

けれど若くして受賞する人はそうやって10代の、幾多の彼女たちを奮い立たせることだろう。その人に憧れて、彼女たちは10代を生きるのだろう。

中学生の私はまさに、綿矢りさと金原ひとみに憧れた。私が家に置いてあった両親の本ではなく、自分で選んだ本を読むようになったのは、彼女たちが燦然と、文学の世界に現れてくれたからだった。

今、その役目を担うのは、宇佐見さんなのだろう。

そう思うと、なんて尊いことを成し遂げたんだろうと心が震える。あなたが受賞したからこそ、これから文学に手を伸ばす少女たち、文学の世界に乗り込んでいく少女たちが必ずいるはずだ。

それはなんて偉大で尊いことだろう。



嫉妬の炎で暖をとる。加減がわからなくてたまに火傷する。けれど火が灯っている限り、私は凍え死ぬことはないのだ。真っ赤な炎に暖められて、私は奮い立つ。きっといろんな人が奮い立つ。他者を奮い立たせる力を持つ人は絶対に偉大だ。受賞おめでとうございます。きっと、きっと、晴れやかな未来がありますように。



「今日はどんな感じで」

「これから仕事が忙しくなるし、ちょっと気合い入れたいんで、なんかアナーキーな感じにしてください」

そう言うとヨシカワさんはしばらく「うーん」と唸り、首を傾げ、襟足ばかりが伸びた私の髪に手櫛を通し、それから手をいっぱいに広げて私の頭の形をいろんな角度から眺め、耳に少しかかった横髪をなんとなく持ち上げて、天井を見上げた。それからヨシカワさんはその姿勢で5秒ほど固まり、何かが「降りてきた」ように「うん」と独り言のように頷いた。

「わかりました。じゃあ早速シャンプーで」

「はい」

そして私はアシスタントの人に案内されて、シャンプー台に座る。温かくて心地よいお湯と、頭皮をゆっくり揉みほぐしてくれる指先の絶妙な力加減に、私はいつも眠ってしまいそうになる。




ヨシカワさんと出会って4年になる。この4年、ヨシカワさん以外に私の髪を任せたことはない。

ヨシカワさんほど私の髪質や頭の形、顔の形、横顔の輪郭、そしてどこにつむじがあるのかも、知り尽くした人はいないだろう。私はこの4年間、ヨシカワさんの手で見事な前下がりボブとぱっつん前髪を思う存分楽しんで、未練がなくなればバッサリショートカットにして真夏の暑さを乗り切って、そしてここ2年間は襟足だけをまっすぐ胸まで伸ばし、頭周りはウルフとマッシュボブを混ぜたような、見事な逆ツーブロックを楽しんでいる。

ヨシカワさんは理論派アーティストと呼ぶのがぴったりの人で、私の髪を切りながらいろんな髪型のバランス理論や前髪の長さとその前髪から見える顔の比率、そしてハサミの違いまで滔々と話す。何もわからない私は「へーえそうなんですか」と適当にわかったようなふりをして相槌を打つ。それでいてアーティストと言うのは、そんな理論をきっちり押さえて出来上がった髪型が、いつも「おっ?」と鏡を覗き込みたくなるような、見たことのない形になっているからだ。


今回はアナーキーな感じにしてくださいとだけ頼んであとはヨシカワさんの好きに任せていたら、まず最初に両サイドを刈り上げられてそれから前髪を斜めにバッサリ切られた。眉上どころじゃない、ほとんど生え際まで見えそうな右の額が露わになって、そこから左目をめがけてまっすぐに、斜めに、前髪は流れた。そして終着点に長めのひと束を残し、左目をほんの少し、隠して見せるのだった。


「テーマはエチゼンクラゲです。襟足は触手で、この前髪の長いところも触手です」


はあ、としか言いようがなかった。アナーキーとリクエストして、エチゼンクラゲを完成させるこのヨシカワさんのセンスが大好きだった。私はヨシカワさんに何もリクエストしない。いつも「伸びた分だけ切って、あとは好きにしてください」とだけ伝えて、今日のヨシカワさんはどんな髪型を見せてくれるのだろうと、それを見るのが楽しみだった。ヨシカワさんを前にしては私はほとんど練習用のウィッグをかぶったマネキンも同然で、だけどそれは、楽しいことだった。ヨシカワさんが作った髪型は、いつも、会社の中で人目を引いた。







ところ変わって、私には美容師の従妹がいる。故郷の美専を卒業し、自宅の近所の美容室で働き始めて5年経つ。去年の春、長いアシスタント期間を経て、晴れてスタイリストに昇格した。ド田舎の故郷であるので、町の人のほとんどはその美容院に行くし、私の母も、叔母も、今ではみんな彼女が髪を切って染めている。彼女は家族の髪型全てを担っている。

会うたびに違う色に染めている、七色の髪を持つ彼女だった。ド田舎の故郷でひとり、バキバキにピアスを開けまくり、お洒落に励み、働いている美容院の中でも浮いているような彼女だった。生まれた頃から知っている、大きくなってきた過程を全て知っている、家を出て離れて暮らすようになった私にも、たまの帰省で「ちーちゃん」と私に笑う。



私はアシスタント時代の彼女に何度か髪を染めてもらったことがある。カットは別のスタイリストさんが受け持ち、カラーになるとおずおず登場してくる彼女に、私は何度か髪を染めてもらった。子供の頃から知っている子に「それではカラー始めさせていただきます」と言われるのはとてもこそばい。こちらも柄にもなく「はいお願いします」と敬語でお辞儀をしてしまう。

アシスタント時代の彼女の両手はいつもボロボロだった。シャンプーやカラーリングは日々彼女の手を痛めつけた。たまの帰省で顔を合わせてもしきりに両手を擦り合わせては「かゆい」「痛い」と顔をしかめていた。勉強はできなかったけれど朗らかでおおらかでよく笑う彼女ですら、あの日々は毎日泣いていたという。思うようにいかなくて悔しかったこと、悲しかったこと、両手が荒れて辛かったこと、それら全てが彼女を毎日泣かせていた。


けれどそんな日々も過ぎ去り、今、彼女はスタイリストである。

けれど私はこうも思う。まだ私の髪を切るには早いんじゃないの? と。


私の髪は、4年間のヨシカワさんが作り上げてきた賜物だ。誰とも似ていない、誰とも同じじゃない、そしてきっと、誰にも真似できない唯一無二の髪型だ。それはいつもそうだった。4年間ずっと、そうだった。螺旋を描くようなアシンメトリーのボブ、極端なマッシュウルフ、そして今はエチゼンクラゲだ。そんな私の髪型に、まだスタイリストになって1年も経たない君は、果たして立ち向かってこれるかな? と思うのだ。


私はヨシカワさんが好きなように切ってくれた髪型をいつも受け入れてただ楽しんできただけだが、そのヨシカワさんのおかげで、自分の髪型に対する思い入れは確実に強くなった。




別に奇抜な髪型じゃなくてもいい。それでも髪を切るとき染めるとき、見違えた自分を鏡の中に見つけるとき、これでまた戦えると思える。これでまた、明日からも世界に立ち向かっていけると思える。そして、美容室に入る前と出たあとの世界は確実に変わっている。髪型は世界を変える。私に見える世界を確実に変える。世界が変わって見える私は、多分きっと「生まれ変わっている」のだ。髪型にはそんな力がある。


ヨシカワさんのおかげで、私は自分の髪型は自分だけのものだと強く思える。気持ちが臆病になっても、この髪型があるから、仕事にも行ける。誰とも同じじゃない髪型でいることで、私はここに埋もれてなんかないと、言い聞かせることができる。ヨシカワさんが私にくれる髪型は、私にとって、なくてはならない武器なのだ。





そんな武器を、私に与えてくれるだけの力が、君にはあるかい?

私の世界を変えてくれるほどの力を、君はどこまで持っているかな?




君が私の髪を切るのはまだまだ全然早いぜ、と思う。私以外の家族みんなの髪型を任せられても、私だけは、まだまだ君には任せないぜ。自分が七色の髪をして、周りからも浮いている君だったらわかるはず。私の髪は難しいぜ。君にはまだまだ10年早いぜ。


だけどもね、大好きな従妹。実の妹ほどに愛してる、可愛い従妹。

私は楽しみに待ってもいるよ。君が技術を磨いていろんな髪型を思い通りに作り上げられるようになって、自信を持って私の髪に立ち向かってきてくれる日を、私は楽しみに待っているんだよ。

私を「おお」と唸らせられるほどの髪型を、君の手が作ってくれること、鏡越しに誇らしげに笑う君の姿を見つける日が、楽しみでならないんだよ。




だからいつか立ち向かっておいで、可愛い従妹。

その頃には、君は誰が見ても一人前の、センスあふれる立派なスタイリストになっていることでしょう。

立ち向かっておいで、大好きな従妹。

ハサミを手にした君と鏡越しに向き合うその日まで、私は私の髪を、精一杯きれいにしておくよ。ヨシカワさんと一緒に、自由な髪型を極めていくよ。きれいな髪を、守り通すよ。


君のために、私は遠く離れた都会の街で、せっせと美容室に通い続けるよ。

愛する従妹よ、その道を強く踏みしめて、歩いていけ。自分の道を極めてゆけ。私はずっと待っているよ。君との真剣勝負を、楽しみにしているよ。

生きていこうと思えるよ、君に髪を切ってもらえる日まで。



 小学2年生。9月のはじめ、祖父が危篤に陥った。私たち姉弟は夜中に叩き起こされ、車を飛ばして病院へと向かった。病室に着いてみれば、そこには親戚が勢ぞろいしていた。一度も話したことのない人もいれば見たことすらない人もいた。そんな人たちに囲まれて、祖父はしずかに、しずかにそこに横たわっていた。私には、一体何が危篤なのか理解できなかった。何故この人たちはこんな夜中にじいちゃんのもとにわざわざ集まっているのか、何故父さんは気持ち悪いくらいに明るい声で眠っているじいちゃんに話しかけているのか、きっと隣にいた幼い弟にも分からなかっただろう。私にとっては、祖父が「危ない」ということよりも、自分は今夜中に病院という場所にいること、知らない人がたくさんいること、そっちの方が差し迫った事件だったのだ。

 しばらく、私と弟はドアの近くに並んで立っていた。隣には母がいた。その母が、途中で私たちを暗い暗い夜の廊下へと連れ出した。

 母はしゃがみこんで小さな私たちふたりに目を合わせ、私たちにしか聞こえないくらいの小さな声ではっきりと言った。

「じいちゃんは、もうすぐ神様のお迎えが来る。これでさいごだからね」

 私は頷いた。隣で弟も頷いた。母は私たちが両方頷いたのを見て、私たちを明るい病室へと戻した。「これでさいごだから」と言われたあとに私の目に映った病室の光景は、だけどそれでも変わらなかった。何も悲しくはなかった。母さんが覚悟を決めて私たちに伝えたことは、私には届かなかったのだ。私にはそれでも知らない人がたくさんいること、今が夜の病室であること、それだけが大事だった。何も悲しくはなかった。

 祖父のすぐ隣に座った父が、戻って来た姉弟を手招いた。私たちは言われるままに知らない人をかきわけるようにそこに行った。

父は、近づいてきた私を引き寄せ、いきなり手を取った。8歳の私の手を眠る祖父の手の甲に重ね、自分の手でぎゅっとくっつけたのだ。

「これが、ちいやぞ。わかるか、これが、ちいやぞ」

 私は、そこに祖父の体温があったことを多分もう覚えていない。今の私が覚えているのは多分、私の手の上からさらに重ねられた父の手の温かさと、さかんに「これが、ちいやぞ」と呼びかけつづけた父の声だけだ。父の声は元気だった、笑っていた。8歳の私は、父さんは何故こんなに楽しそうなんだろうと不思議に思う。だけど今ならわかる、14年経った今なら、大人にも空元気というものがあると知っている。

 私の手は祖父から離れる。次は、弟の番だった。

 だけど、弟はそこで泣きだした。誰の顔も見ずに、ただ眠る祖父だけを見て泣いていた。周囲がざわつく。隣にいた父は「なんで泣くんよ」と必死に笑う。弟は、ただ声も上げずに泣いている。それを、8歳の私がつめたい目で見ている。

 お母さんがあんなことを言ったからだ、この子は本気にしちゃったんだ。お母さんのせいだ。幼い私は弟をなだめようともせず、ただ黙ってつめたく彼を見ていた。

 父はそれでも弟を引き寄せて、私にしたように彼のさらに小さな手を祖父のそれに重ねる。同じことをする。「こっちはのぶやぞ、わかるか」弟は泣いている。

 今思えば、あのとき、あの場所でいちばん混乱していたのは父だったことだろう。いちばん無理に笑っていたのは父だったのだろう。いちばん、泣きたかったのはきっと父だったのだろう。14年経った今でも思う、私の父にとって大事だったのは祖母よりも祖父だ。父の最愛はまぎれもなく祖父だった。それは多分今でも変わっていない。

 その日、祖父にはだけど神様はやってこなかった。幼い姉弟を連れた私たち家族は帰路についた。帰りの車の中で、私は起きていた。隣で弟は眠っていた。

 それから多分一週間ほど経って、祖父は逝った。私の家は知らない親戚の人たちで溢れかえった。私はいつも黒い服を着せられた。居間のソファに座って、祖母の妹である人が「なんでこんなことに」とハンカチを片手に泣いていた。今でもはっきりと覚えている。



 利き手が遺伝するものかは知らないけれど、私の祖父は左利きだった。左利きで生まれてきてしまった私は、よく祖母から「じいちゃんも左やったからねえ」と言われた。

 だけど、その祖父は私にことさら厳しかった。私が生まれたときにはもうすでに喉の病気で声を失くしていた祖父は、自分の意志をよく紙に書いた。私にも書いて渡した。

 文字には、声色というものがない。そして祖父の言葉はいつも簡潔だった。本当に、要点しか書かなかった。

「ひだりききは あとでそんする」

 祖父は、左利きをやめろという意味のメッセージを何度も私に手渡したはずだけど、私が今でも覚えているのはこの一言だけだ。多分、小さな私がどうして左利きではいけないのかと尋ねたその返事のような気がする。そん? 聞き返した私に祖父は頷いた。何度もこの言葉を書いた。それはそのまま、祖父が今まで感じてきた損の数だったのだろう。


 そして父もまた私に厳しかった。私が安心できるのは食事のときだけだった。「箸は左でもいいんだぞ」父は何度も私に言った。私は頷くしかなかった。まだ祖父が病院でなく、家に居たとき、彼もまた左手で箸を持った。「父さんは、そんなじいちゃんが好きだったんだよ」あとで父は私に泣きながらこう言った。

 祖父が死んで、幼い私はいくらか楽になったのかもしれない。祖父の死後も、私はしばらく両親の言いつけ通り右手で文字を書く練習を続けていた。何度も何度もひらがなをノートに書いた。左手で書く文字と比べて圧倒的にいびつで汚い文字たちが憎くて仕方が無かった。祖父の死後から2ヶ月ほど経って、私はついに爆発した。それでも勇気が無かった私は「もういやだ」と母にしか言えなかった。すぐに私は父に呼び出され、2回ほど説教を受けた。左利きであり続けることがいかに損か、周りから左利きはどう見えているのか、ふたりきりにされて延々と繰り返された。私は泣いた、父も泣いた。私はそのとき、はじめて父が泣くのを見た。あとにもさきにも、あのときだけだ。

「じいちゃんも左利きだった、だけどじいちゃんはちゃんと字は右手で書いてた。でも、箸はずっと左手だっただろ。父さんは、そんなじいちゃんが好きだったんだ。じいちゃんは、死んじゃったけどな」

 父さんは私に泣いてこう言った。

 父さんはとても卑怯だ。そんなことを泣いて言われては、もう幼い私に打つ手なんてあるはずがないのだ。結局わたしはそうして丸め込まれ、右利きを目指すしかない。「わたしとじいちゃんは違う」「左利きだって個性だよ」そんな言葉が何になるというのだ。ただただ、間違っているのは私の方だったのだ。左利きは間違いなのだ、存在してはいけないのだ。私は泣きながら「わかりました」と言うしかなかった。

 だけど、それでも私の矯正は終わった。すぐに私はまた爆発し、父はとうとう諦めた。14年経った今の私はもう右手で文字など書けやしない。それでも、父の前でペンを持つとき、今でも不思議に緊張する。



 だけど祖父は、もしかしたら、私はもうすでに左利きであった自分を忘れていると、そう思っているのかもしれない。自分がそうであったように、私が文字は右手で書き、箸は左手に持つという女になったと思っているのかもしれない。だってあの夜、そして、葬式でも泣かなかった私を祖父は知らないのだ。泣いたのは右利きの弟だけだったのだ。


 だって、あの夜父が選んだのは私の右手だったのだ。父は私の右手を祖父の左手に重ねた。「これが、ちいやぞ」私は最後に、右手で祖父に触れたのだ。私は最後に、嘘を吐かされたのだ。「わかるか、これがちいやぞ」そこには何もなかったのに。私の命は左手にしか宿らなかったのに。

 祖父はきっと、私の右手しか覚えていない。いつか私が死んだとき、ちゃんと説明しに行かなければならない。



ひだりて / 20130108 (1998.9)



2013年に書いた記憶をブログから転載しました。



乾燥肌だと言われたので、薬局に行ってボディークリームを買ってきた。

まるいプラスチック容器に入ったそれは、青い蓋を開けてみればどぷんとたっぷり入っていて、私はそれを、お風呂上がりに、遠慮なくごそっと掬い取っては全身にべたべたと、がしがしと、塗りたくる。お腹、腰、デコルテ、太もも、両腕、永遠にも無くならなさそうな量のクリームを、贅沢に掬い取っては塗りたくる。

べたべたと、がしがしと、無心で。




8年前、オーストリアの片隅の街に住んでいた私は、春のイースター休みを利用して立て続けに友達との、そして両親との旅行を済ませ、それからほどなくして、理由のわからない痒みに悩まされることになった。

始めはちょうどジーンズの腰回りが肌に当たる、骨盤少し上のあたりから始まって、そこをなんとなく、その時は特段何も思わず掻いているうちにみるみるそれは酷くなり、腰回りに発疹ができた。なんだろう、旅行先で何か変なものでも食べただろうかと思い返してもウィンナーシュニッツェルとワインとパフェくらいしか記憶がない。なんだろう気持ち悪いな、とりあえずなるべくそっとしておこうと、痒みのことは、なるべく考えないようにしようと、そうしたらそのうち勝手に引いていくだろうと、そのときは呑気にそう考えていた。

けれど発疹はそのうち腰から脚へ、それから胸へどんどん広がっていき、一ヶ月もしないうちに両腕の指の先、両足のつま先にまで届いてしまった。腰回りだけで済んでいた痒みはもはや全身のものになって、耐え難く痒いのと、何より、耐え難く怖かった。自分の体に何が起こっているのか全くわからなかった。母に連絡して、日本の薬局で売られている痒み止め成分の入ったボディークリームを送ってもらったけれど、何の効果もなかった。



ああ困った。本当に困ったと、陰鬱としながら腑抜けた顔で歯を磨いていると、同居人のユリアがちょうど洗面所に入ってきた。

Wie geht's dir?(これは英語で言うところのhow are you?にあたる)顔を合わせた時の決まり文句としてユリアは屈託無く私に声をかけた。それから「最近、あまり顔を見ないね」とも。

私は彼女が看護学科の学生だったことをふと思い出した。かなり躊躇ったけれど、勇気を出して打ち明けることにした。「最近、ちょっと体が痒いんだ」と。

するとユリアは怪訝な顔をして、「痒いの?」と聞き返してくる。私は頷いて、なんか発疹みたいなものがさ、ということを拙いドイツ語で説明した。ユリアは顔をしかめて、見てもいい? と言ってきた。私はまた頷いて、歯磨きの手を止めて、腕の長袖を捲った。その頃にはかなりひどい発疹が腕を埋め尽くしていた。ユリアは私の腕を一目見るなり「うわあ」と声を上げたけれど、これが一体なんなのか、見極めようとするかのようにじっと私の発疹を見つめた。

「病院とか、薬とかは?」

「まだ何もしてないんだけど」

そっか、ユリアはひとまず引き下がった。「何かあったら、いつでも言ってね」と、じっと私の目を見て言った。ありがとう、私は答える。美しいユリアの青い目に見つめられると緊張する。



数日後、私は勇気を出して、皮膚科へ予約の電話を入れていた。病院へ電話をかけるのは初めてだった。予約が取れたのは一週間後くらいの日で、それまでに今よりもっと酷くならなければいいけど、と、受診日までの時間を思ってため息をついた。

部屋を出て居間に下りると、また別の同居人イレーネがコーヒー片手にソファに座っていた。イレーネは私を見るなり、同じようにWie geht's dir?と尋ねてきた。その言い方で、私の発疹のことを言っているのだと気づいた。ユリアが彼女に伝えたのだろう。

「あんまり良くはないんだけど、でも一応病院には予約入れたよ」

「いつ?」

「来週なんだけど」

イレーネは壁にかけられたカレンダーを見た。そして、「一緒に行こうか?」と言ってきたのだった。驚いて遠慮しようとする私に、「でも一人で診察受けても、チヒロはここの人じゃないんだから、言われてわからないことだってあるでしょ」とイレーネは言った。それから彼女はもう一度カレンダーを見て、日付と時間を呟いた。もし都合がついたら私が一緒に行くわねと、イレーネはじっと私の目を見て言った。イレーネの茶色の大きな目も見つめられると緊張する。



そのまた数日後、私は結局自分で取った皮膚科の診察を待たずに、街の総合病院の待合席に座り込んでいた。

案の定発疹は酷くなり、いよいよ首元から顎へ、違和感がじわじわと上がってくるのを感じ、顔にまで発疹が出たらもう外に出られなくなると、ほとんど119番にかけるかのように、街に住んでいた日本人の先生に相談したのだった。私の話を聞いた先生は、じゃあ総合病院に行ってみたらと言った。「予約がないから待たされるとは思うけど、dringend(「緊急」のことだ)って言ったら受け付けてはもらえるはずよ」

私は鞄に数冊の本を入れ、医者にすぐ肌を見せられるようにTシャツにカーディガン、そして足元は雑なパッチワークのような変形スカートを履いて、部屋を飛び出した。


受付で事情を説明したら待合席に通してもらえた。病院はまあまあ混んでいて、待合室に並べられた長椅子にもほとんど空きはなかった。その中で、一人分座れるスペースを見つけ、私はじっと本を読んでいた。周りが次々放送で名前を呼ばれ、立ち上がっていく中で、私は一時間ほどをその待合室で過ごした。読書は随分と捗った。

何十回目かの放送のあとで、いかにも何と発音していいのかわかっていなさそうな医者の声が私を呼んだ。私はすぐに本を閉じて立ち上がる。周りにいた人も顔を上げて私を見る。こんな公共の空間で名前を呼ばれるのは緊張する。日本人です、どうも。


診察室に入ると、年配の男性医師がデスクチェアに座り、その傍に、女性看護師が立っていた。医者は、いかにも物珍しそうな目と笑顔で私を見ていた。差し出された丸椅子に腰掛けて、実際に現状を見てもらうのが一番手っ取り早いだろうと、全身が痒くてこんな感じなんです、と、私はカーディガンの裾を捲って腕を医者に差し出した。

医者は「ああ」という、嘆息なのか、ひらめきなのか、わからない声を上げて、私の腕を優しく取った。ボールペンの先で私の発疹を優しく撫でて、くまなく、じっと、私の腕を見た。何度か頷いたようにも見えた。

「これはいつから?」

「春……4月くらいから」

「夜は眠れている?」

「あまり良くは眠れてないです」

ふんふん、医者は私の話を聞き、ざくざくとカルテに書き込んでいく。そしてこの発疹が一体全体何なのかは一切説明することなしに、「薬を2種類出しますね」と言った。

「小さい器のと、大きい器のふたつを出します。これを毎日全身に塗ってください。まずは小さい方から使って、それから大きい方を使ってください」

結局なんだったんだろう、でもそれで治るならまあいいかと私は頷いて、席を立ちかけたところに、医者が唐突に「そのスカート」と、私の雑なパッチワーク変形スカートを指差した。

「日本にそういう服がたくさん売っている街がありますよね、東京の」

「えっ?」私は椅子に座り直す。「どこだろう……渋谷ですか?」

「うーん」

「青山? 表参道? ……あっ、原宿? ですか?」

原宿、という単語を聞いた途端医者の目は輝いた。そして「ハラユク!」と声を上げた。いや、ハラジュクですと正そうとして、そういえばこの国では「ju」の発音は「ジュ」ではなくて「ユ」であることを思い出した。(だからユリアもJuliaであって、ジュリアではないのだ)

このスカートは原宿で買ったものではなかったけれど、医者があまりに嬉しそうに「ハラユク」と繰り返すので、原宿で買ったということでいいやと思った。

「処方箋は受付で受け取ってくださいね。薬局は街のどこに行ってもらってもいいです」

「わかりました。ありがとうございました」

そして今度こそ席を立とうとした私に、医者は今度は右手を差し出してきた。物珍しそうなで私のことを見ていた医者は、最後に何かの記念のように、嬉しそうに、握手を求めてきたのだった。

ああ、私は思わず笑ってしまって、発疹だらけの手を差し出した。「ありがとうございました」私はもう一度お礼を言った。「お大事にね」医者は言った。彼の後ろで、看護師さんが楽しげに微笑んでいた。



言われた通りに街の薬局に行き、カウンターの女性に処方箋を渡した。女性は処方箋を一瞥し、慣れた様子でずらりと並ぶ棚の向こうに引っ込んで行った。しばらくして戻ってきた女性の手には、医者が言っていた通り、小さい丸い器と大きい丸い器のふたつが握られていた。

薬をカウンターに置き、女性は小さい方を指差して、こっちが先ねと医者と同じことを言った。私は頷いた。お金を払って薬局を出た。この国に来て薬局に入ったのも、初めてのことだった。



部屋に帰ってきて、その日から早速薬を使い始めた。丸い器を開けてみると、ボディークリームのような白い塗り薬がどぷんとたっぷり入っていた。私は言われた通りに小さい方から、ごそっと指で掬い取って全身に塗りたくった。そしてはたと気づいた。小さい方を使い切るまで大きい方は塗らなくていいのか、小さい方を先に塗り、大きい方もその上から塗ればいいのか。はて、考えてみればどっちのパターンにも取れる言い方だったな。少し考えて、私は小さい方を先に塗り、大きい方もその上から塗ることにした。べたべたと、がしがしと、それはもう、長く続いたこの発疹への積年の恨みに今こそ報いてやると、一心不乱に、毎日毎日、べたべたと、がしがしと、塗りたくった。




二週間ほどが経っていた。小さい器の方の薬はなくなりつつあった。そして、私の全身の発疹もまた、綺麗に消えつつあった。もちろん痒みも、あるにはあるが全く無視できるほどに落ち着いていた。結局何が原因で、私はこの二週間何を塗っていたのか自分でもわからないまま過ごしてきたが、私の発疹は確実に、薬によって息も絶え絶えになっていた。

もう二ヶ月ほど、発疹だらけの自分の体しか見ていなかった。嬉しかった。綺麗に、元どおりの肌が戻ってきつつあったのは、素直に、心から、嬉しかった。安心した。どうにか、どうにか、私は治っていったのだ。


居間で再びイレーネと顔を合わせた。一緒に病院に行ってあげると言ってくれたイレーネは、私を見てもう一度Wie geht's dir?と尋ねた。私は笑顔で長袖を捲り、綺麗になった腕を彼女に見せた。ああ! Gott sei Dank! イレーネは腹の底から言った。Gott sei dankはちょうど私たちが「ああよかったー!」と、しみじみ言う時に使う言葉だ。

よかったねチヒロ、よかったね。イレーネは何度も言った。私も頷いた。よかった、ありがとうイレーネ。一緒に病院行ってあげるって、言ってくれたのに結局一人で行っちゃってごめん、でもありがとう。心配してくれて、気にかけていてくれて、本当に、ありがとう。






お風呂上がりに、べたべたと、がしがしと、無心でボディークリームを塗りたくるとき、そういえば以前にも似たような容器を、この白いクリームの量を、見たような気がしたなと、そして、ああそうだったと、いろんな人が私を助けてくれたあのときの、あの薬に似ているんだと気づく。


留学していた10ヶ月間、嬉しいこともあれば嫌な目に遭うことも少なくなかった。下着泥棒やら、銀行口座の不正出金やら、道ゆく人の心無いからかいやら差別やら、傷ついたことはたくさんあった。

けれど8年が経って、あの日々のことを思い出すとき、浮かんでくるのは何よりも、優しかった人たちの笑顔や、親切や、言葉なのだった。この発疹騒動だけじゃない。例えば重いスーツケースを持って電車に乗ろうとしたとき、ごく自然に手伝ってくれた通りすがりの男の人。オペラの当日券の列に並んでいたとき、学生チケットが一枚余ったから君にあげるよ、お金は要らないと私にチケットを差し出し、私がきちんとお礼を言う間も無く去っていったおじいさん。毎日のように通っていたカフェで本を読んでいたとき、おまけだよと言って、オレンジの載ったチョコレートマフィンを出してくれた店長さん。近所のスーパーのレジでいつも顔を合わせて、どこから来たのと私に尋ね、日本だと答えるとワオと声をあげて「コンニチハ」と笑ってくれた店員さん。

そして、部屋に引きこもりがちだった私にも優しかった同居人たち。美しいユリア、明るいイレーネ。


結局この心に残るのは、人から受けた親切であり、向けられた優しさであり、温かい眼差しなのだった。それこそが、私の中に長く長く残り、息づいて、そして私が今、生きているのだと思うのだった。


私は今夜も、お風呂上がりにボディークリームを塗りたくる。



潮騒響く世界の中心で、炎に守られ炎を秘め、炎とともにあった時間だった。


轟く潮騒の轟音に私は目が覚める。鼓膜全てが潮騒のために震えている。潮騒に聴覚を埋め尽くされながら、小舟にひとり、大きな揺れに表情を歪ませている、吹き上がってくる波飛沫に目を細めている画家の顔を私は見る。

潮騒の轟音が埋め尽くす世界で、崖を目がけ躊躇いなく走る女性を私は見る。空とともに色が移ろう海は青く、白く、夕日の色へ、まるで絵の具が足されるように。なんて美しい海、私は目を見張る。なんて美しい海、なんて美しい砂浜と岩場そして崖。なんて美しい波打ち際、その潮騒。圧倒的な美しい海を前にふたり並んで立つ彼女たちをじっと見ている。


じっと見ている。画家の真っ黒な目は上目がちにモデルをじっと見る、手を走らせる、使い込まれたパレットから目の前にある光景と同じ色を作り出し、素早く、ゆっくり、思慮深く、注意深く、色は短く長く伸びていく。私はまた色に見惚れる。なんて豊かな色彩。画家の目に映る色はこんなに細分化されて豊かにそれぞれ異なる色が、カンバスの上で混じり合っていく、あまりにも贅沢な、色彩。

部屋でふたり向き合うふたりは常に発光しているように見える。輪郭は夢見るように微睡んでいて、微睡みの隙間からふたりの光が漏れている。生きているという光、才能という光、今が特別な時間であることへの、緊張感と幸福がもたらす光。部屋は光に満ちている。光の中で、彼女たちの肌は、目は、髪は、ドレスの光沢は、光っている。

目をそらすことができない。移ろい色を変えゆく海、ふたりが交わす視線、そして暖炉と蝋燭の炎で照らされる彼女たちの夜から目をそらすことができない。


光は熱を生み出し炎へと変わる。彼女たちは燃えている。ふたりを隔てるその焚き火、その火を越えずとも、彼女たちは燃えている。燃える眼差しは、私をも掴む。


恋は燃える。心臓が燃える。全身が燃える。だから「焦がれる」。足元から立ち上る炎に、心臓に穴を開けた炎に、身は焦がされていく。恋は「焦がれる」。炎に焼かれながら生きる、その生の実感。生きている存在。潮騒の轟音に目が覚めた私は、彼女たちの燃えさかる炎の光でまた目が覚める。彼女たちは暖炉と蝋燭の炎の中で夜を過ごす、私は燃える彼女たちに照らされてこの夜を過ごしている。この2時間を炎とともに。まるでスクリーンが暖炉そのもので、私はそこで、じっと、暖をとるように。すぐ足元に炎の気配が感じられそうなほどに、彼女たちの炎は、私をも、燃やせるというのだろうか。私もまた燃えていたのだろうか、あの2時間のあいだ、私もまた、燃えていたのだろうか。



足を速めて訪れた冬に放り出されて私はさざめいている。夜の街で、レッドステージの上で、軒並みシャッターが降りた、病が暴走する街で、私はさざめいている。少しも寒くない。燃えていたから、その残り火で今なおさざめいているから。すぐにでもすぐにでもこれを、私が見たものを、分け与えられたこの炎を、書き留めなければならないと必死に、歩いていたから。

衝動が私を燃やす。書かなくてはならない衝動が私を燃やす。あの潮騒、海の美しさ、光るふたり、豊かな色彩、そして、ああ、あの炎! 書かなくてはならない衝動が、私の足を蹴る。もっと速く歩けと私の炎が急き立てる。ふたりから分け与えられたこの炎が。



生きては燃える、燃えてはまた生きる。燃え上がった炎はいつまでも彼女を私を生かす。冬の中にいる。暖房もつけずにいるこの部屋、朝の薄明かりだけが頼りのこの部屋、一夜明けてなお私は、衝動に燃やされている。書かなくてはならない衝動が、覚えていたいと強く願う衝動が、レッドステージの上に立たされてなお、心が劇場に置き去りにされ燃えているそれに再会したいという衝動が、土曜の朝の私を燃やしている。


目をそらすことができない。炎から、私は目をそらすことができない。

ああ、あの炎。捉えてやまないあの炎。この病んで凍てついた2020年に、こんなに鮮やかに、力強く、魅了されるほどに美しく熱い炎が私を燃やすとは。燃やしてくれたとは。身を焦がす炎がこんなにも、書けと私を突き動かすとは。生きろと私を突き動かすとは。



ああ、あの炎。一生に一度出会えるか出会えないかの炎。それが燃え上がる時間に立ち会えたことの幸福はあまりにも大きく、私は震えを抑えることができない。生きることは燃えること、震えること、一生ものの炎に出会い祝福すること。今、どれもが私の中にあるこの奇跡のような体験。

この映画がどうか少しでも多くの人に届くよう、目に留まるよう、あの炎がどこまでも広がって、共有されて、大きな火柱となって、またこの目に届くよう。誰もの心に火が灯り、暖かく燃える冬となるよう。


『燃ゆる女の肖像』。ようやく出会えた、その炎。




lady on fire


その心臓に穴を開けたのはわたし

その足元に火を点けたのはあなた


燃え盛り舞い上がり死んでゆく夜の陽炎 燻り眩み燻り眩み

わたしを見つめる

陽炎の隙間をすり抜けてわたしを見つめる


燃え上がる歌声


光るあなた 燃えるあなた

海の間際で燃えるあなた

潮騒にもかき消すことのできない炎 燃えるあなた

輪郭が夢のように微睡んで滲む

あなたを見つめる

夢のあわいに目を凝らしてあなたを見つめる


潮騒よ歌声よ風鳴りよあなたの裾が翻る衣擦れの音よ

炎に色付けられた夜よ 夜が降ろした影が薄れ目覚めゆく朝よ


振り返ってよ

 (わたしへの愛の証に)

振り返ってよ

 (わたしが画家であるために)

あなたが消えてしまったのはわたしが扉を閉めたからだ

ああ、オルフェの秘密それこそが秘密 気づいてしまった


悲しくはないの

えがくことは別離と浄化、救済

えがくことはわたしの目からまたひとつ景色を切り離して楽になる

語れないものに涙するあなたをわたしの目がえがいている


燃え上がる歌声

lady on fire

燃え上がる音楽

lady on fire

小学生だった頃、弟が持っていたゲーム「真・三國無双」というゲームを一緒になってプレイしていた時期があった。言わずと知れたシリーズもので、三国志に出てくる人物を使っていろんな戦に出かけていって自軍が勝てば(敵将を討てば)よし、というゲームなのだけど、私はこのゲームをプレイする時、自分が使うキャラクターを頑なに決めていた。


甄姫(シンキ)という女の人だ。魏軍に属し、大将曹操の息子である曹丕の妻である。



彼女はとにかく、ものすごく、顔が好みだった。CGのくせに、本当に美人だった。びっくりするくらい美人だった。こんな人が戦場に出てきたら周りが逆に気を遣いそうなほどの、絶世の美しい人だった。

全身を青紫のカラーコーディネートでまとめて、長い髪を結い、防御も何もあったものじゃない美しさ重視の格好で、平気で臍を出し、切り込みが深すぎるスリットの入ったスカートに踵の高いブーツを履いて、彼女はどの戦場にも繰り出して行った。戦場に出ている時の彼女には「曹丕の妻」なんて肩書きは一切要らなかった。


長くてたくさんの装飾が施された横笛が武器で、一応楽器のはずなのに彼女の戦法はそれをぶんぶん振り回して敵を殴り殺すというものだった。美しい楽器をまるで鉄パイプのように振り回し、殴り、殴り、最後には尖った踵で蹴り飛ばした。高笑いしながら馬を操り、数の多さだけが取り柄の雑魚の歩兵にも、要所にいる中ボスにも、彼女は同じ態度で鉄パイプの横笛を片手に挑んでいった。「汚らわしい」と「お黙りなさい」が口癖の彼女は無双のゲージが満タンになるとようやく笛を笛として使って、その超音波か何かで周りの敵を一掃していた。

けれど私はあくまで殴り殺すスタイルを貫く彼女が好きだった。それ、良い笛なんじゃないのと声をかけたくなるほどに容赦無く、敵将にボコボコに殴りかかる彼女が好きだった。誰にも守られることなく、一人で戦地を走り回り、ただ一人涼しい顔をして美しい姿のままでいる彼女が好きだった。



甄姫という人は、ゲームの中では決して強い方の人ではなかった。

強い人を使おうと思えば力の強い男性には叶わないし、体力面でもパワー面でも甄姫はどれだけ良い武器を持たせても、どれだけレベルを上げても男の人には叶わなかった。

それでも私は甄姫だけを使い続けた。弟が呆れて「女キャラがいいなら他にもいるじゃんか」と言っても、私は絶対に甄姫を選んだ。他の女性たちがどれだけ美しくても愛くるしくても、甄姫以上に美しい女性はあのゲームには存在しなかった。

私は甄姫に一目惚れしていたのだった。



甄姫が属している魏軍もまた好きだった。強さこそが全てのような集団で、慈悲のかけらもなさそうな曹操やその息子曹丕、狡猾で人を見下すのが大好きな軍師司馬懿、その他諸々の人たち、基本的に青色で統一された人たち、力こそ全てな人たちが好きだった。蜀の思慮深さ、呉の情熱的なところ、何にも興味がなかった。私は血も涙もなさそうな、まさに青い血をしていそうな、冷たくて強い魏軍が好きだった。たとえ本物の三国志では滅びるさだめにあろうとも、私は魏軍が大好きだった。


何より甄姫が、彼女が大好きだった。誰かの妻という肩書きをかなぐり捨てて敵将を殴り殺しにいく彼女の姿が好きだった。笛を笛とも思わずに、きっと鉄パイプ仕込みのそれで、これでもかというくらいに殴り殴り蹴り飛ばす彼女が好きだった。見た目の美しさのわりに、泥臭い戦い方をする彼女が好きだった。「汚らわしい」も「お黙りなさい」も高笑いも全て好きだった。




真・三國無双は今どこまで進化しているのかもう知らない、もしかしたら終わってしまったシリーズかもしれない、けれど今、もう一度このゲームで遊ぶとしても、私は甄姫を選ぶだろうと思う。そして殴り飛ばすスタンスは、変わらないままでいてほしいなと思う。

私の三国志はずっと魏が強いままだし、甄姫は永遠に美しいままでいる。永遠に美しいままでいてほしい、幼かった私が一目惚れしたたったひとりのお姫様。



第5章 2020東阪公演「UNHESITATE」

いきなり第5章から始めたのは過去にも彼女について書いたことがあるからだ。2017年、最後の第4章は全国ツアー「syndrome」で終わっていた。4年が経った。鬼束ちひろのその後を、その新章の幕開けを告げたこの公演から、私は彼女の物語を続けてみたいと思う。もちろん、4章までと同様に、これはライブレポートでもあり、私のフィクションでもある。私の目が見た彼女の物語の、幾千にもあるうちの一つにすぎない物語、あるいは幻覚である。そんな幻覚を許してくれる人だけに、読んでもらえたらいいなと思う。


ロビー時間:4章まで

「I My Me Mine 或いは届かないSehnsucht.」


UNHESITATE setlist

BORDERLINE
End of the world
Tiger in my love
Beautiful Fighter

イノセンス

私とワルツを

流星群

ダイニングチキン
EVER AFTER

悲しみの気球

火の鳥
MAGICAL WORLD
CROW


書きかけの手紙

月光

嵐ヶ丘



アレンジされた「月の光」が静かに演奏される中、彼女は裾の長いシンプルなドレスでゆっくり中央に歩いてくる。音楽が遠ざかり、一瞬の静寂に完全に包まれる直前、真紅の照明とともに「BORDERLINE」の鋭いピアノがぴんと糸を張る。糸はその一音だけで観客を縛り付け、ステージへ括り付けてしまう。



FEEL ACROSS THE BORDERLINE

NOW YOU’RE SAVED AND YOU UNDERSTAND

さあ 神の指を舐めるの



前回、私は第1章「神の子が『神』になるまで」でこの「BORDERLINE」という曲についてこのように書いた。「これは彼女が神を引き摺り降ろそうとする曲だ」と。「月光」によってこの世界に堕とされた彼女が神の子の力を開花させ、かつて自分を堕とした神の国へ復讐ヘ向かい、あるいはそれを達成する曲なのだと解釈した。だからこそ、この解釈においてはこの曲は「到達点」の位置にいなくてはならない。3rdアルバム『Sugar High』でこの曲は絶対に最後の曲でなくてはならなかった。

その曲をライブの1曲目に持ってくるとなると、また次の、新しい解釈を求めてみるのもいいだろう。

この曲のタイトルは「BORDERLINE」、「境界線」を意味する言葉だ。しかもここには「どちらか一方に決めきれない」という意味も含んでいる。ライブの始まり、私たちの前には、いわば何らかすれすれの線が示されるのだ。三島由紀夫を気取るつもりはないが、これは「その線を越えてこれるか」という、鬼束ちひろなりの「誘い」なのではないだろうか。このライブを聴くからには、この線を踏み越えておいで、こちら側へおいで、という、観客の覚悟を試すかのようなささやかな悪戯心、遊び心。けれど観客は自らの覚悟がいかほどかを考える余地もなく、引き寄せられる。引きずり込まれていく。そうさせるのは、「BORDERLINE」をおいて他にはない。この曲は神への復讐を歌うだけでなく、私たちに門を開いて見せる音楽だ。



汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ

ダンテ『神曲』



それからセットリストは一転して柔らかな「End of the world」に移り、前回のストリーミングコンサート「SUBURBIA」からの「Tiger in my love」がまた空気を変えていく。

しかし、その次「Beautiful Fighter」が流れ出したとき、私はこのコンサートの展開がさっぱりわからなくなってしまった。なぜ今、今になって、「Beautiful Fighter」。結局東芝EMI時代のアルバムにも収録されることはなく、ベスト盤やシングルコレクションにしか入らなかったこの曲。CD音源では彼女にとって初のピアノレスな音楽は、ピアノ・バイオリン、チェロの三重奏によって見事に形を変え、軽やか且つジャジーな響きに生まれ変わっていた。

ここから、まるでジェットコースターのように、意識が撹拌されて自分が彼女の音楽に飲み込まれていくのを、そうなっていくのに、なすすべがなかった。「Beautiful Fighter」の戸惑いを引きずったまま流れ出したのは『インソムニア』より「イノセンス」。アルバムの2曲目、「月光」の次にあたる曲だ。なぜここで、イノセンス。コンサートで披露されるのはいつぶりになるんだ、このイノセンス。けれどこの「イノセンス」もまた、20年を経た鬼束の圧倒的声量、叩きつけるような声の勢いが曲そのものの力を底上げし、「BORDERLINE」で私の体に絡んだ糸は今や太い縄になり、私は全身を縛り上げられていく。息が知らず止まる。曲が終わり、コンサートでは定番となった「私とワルツを」のイントロが流れ出した時は思わず安堵したほどだった。

けれど定番曲「私とワルツを」「流星群」で少し力が抜けたのもつかの間、また思いもよらなかった曲がやってくる。「ダイニングチキン」だ。いつぶりに歌うのか、そもそも、コンサートで歌ったことあるのか、この曲。「Sign」のc/w曲に隠れてはいるが、大好きな曲。静かに静かに、回線は巡り狂い絶望が澄み渡っていく音楽。



始まりを示し終わりを示す誤作動

私は星で

貴方は願うのをやめただけ

回線は巡り行く

今夜も 静かに

それは決して眠れることのない眠り



ここまで聴いて、少しだけ残った思考の余裕で考えて、このコンサートはつまり、翌日に発表される新アルバム『HYSTERIA』の裏ヴァージョンなのかもしれないと思った。『HYSTERIA』が20年前の音楽を再発見し、リライトされて組み上げられたアルバムならば、この「UNHESITATE」は今まで喝采の光に当たってこなかった音楽を拾い上げ、光を見せてやろうとする試みなのではないだろうか。20年間眠っていた音楽、20年間輝く曲たちの隣で静かにじっとしていた音楽、彼らに、鬼束は同じものを感じたのかもしれない。

それに「ダイニングチキン」に続く「EVER AFTER」も、「SUBURBIA」から引き続いた選曲となるものの、意外な選曲であることには変わりがない。アルバム『剣と楓』に収録されている音楽でコンサートに使われるのはもっぱらシングルカットされた「青い鳥」である。今まで歌ってこれなかった曲を、あまり光に当ててやれなかった曲を、彼女は意図的にセットリストに組み込んでいったのではないだろうか。


それから、2018年「BEEKEEPER」に続くような、観客を包み込み、優しく抱きしめ、語りかけるような音楽が散りばめられる。「火の鳥」「MAGICAL WORLD」「CROW」。中でも「CROW」は20年が経って大きく花開いた音楽、20年経ってようやく彼女自身がこの曲に追いついた音楽だと言っても良いだろう。『This Armor』で発表した時から様々な苦境、悲しみ、死ぬほどのしんどさを飲み込み続けてきた彼女だからこそ歌える、響く、燦然と光が降り注ぐような救済の音楽に、この曲は20年かけて進化したのだ。



「私が死にそうだったとき、曲を書くよりも生きるほうが辛かったとき、ファンの皆さんに救ってもらったんです。曲を聴いてもらったり、CDを買ってもらえるって、本当にすごいことなので……。だから、今は私がノックしてあげる番だと思っていて。死にそうなくらい辛い人がいたら、私が心のドアをノックして、〈大丈夫、大丈夫〉と言ってあげたいです。」

鬼束ちひろが歩んだ20年――叶わなかった思いに祈りを捧げる歌、その道程と現在地


この鎧は重すぎる 私にはとても

優しささえ伝わらずに 倒れるのは嫌

もう誰も貴方を攻めたりしない

そんなの早く脱いで



それから音楽は「」へ移り、20年目の曲「書きかけの手紙」に入る。一面が夕日を思わせるオレンジ色の照明、その中にいて彼女の輪郭すらも覚束ない。自分がいなかった頃、自分を見つけられなかった頃、その日々にいてただ涙が溢れるだけの、そんな頃が表されているようにも見えた。けれど彼女には返事が届く。彼女が手紙を書けないままでも、あなたの何もかもを覚えているよと、許しているよと、言ってくれる人がいる。



貴方に優しく出来なかったあの頃や

貴方に辛さだけぶつけたあの頃へ

全部忘れられないと届いた返事

「まともじゃなくたって  いいから」

「ふつうじゃなくたって  それでいいからね」と



届いた返事を手に握りしめ、胸に秘め、足元に散りばめて、彼女は今、このステージに立っているのだった。「神の子」だった、こんな世界では生きられないと嘆いた。人のように振る舞えなくて泣いた。人と同じようになれなくて、いられなくて、それを誰かは「まともじゃない」と指をさし、私もまた第2章で「バベルの塔は崩壊する」と書いた。彼女は自分の生きづらさにずっとずっと耐えてきた。あるときは道化を演じることによって、あるときは外見を大きく変えることによって、「生きること」自体に、今にも砕けそうな心ひとつだけで立ち向かい、耐えてきた。

その「耐えてきた」彼女が、もう一度「月光」を歌う。こんな世界では生きられないと嘆くばかりだった20年前の自分をもう一度歌う。もちろん、「月光」という曲なくしては鬼束ちひろのライブは締まらないと考える人も多いだろう。私だってそう思う。歌わなかった方が拍子抜けする。きっと「月光」を聴きたくてライブに来る人だって少なくないはずだ。この曲は紛れもなく彼女のライブの定番なのだ。

けれど、「書きかけの手紙」を歌い終えたあとに続く「月光」は、定番曲だからという、それだけではなく、かつてこんな世界では生きられないと嘆いた自分への、鎮魂歌のように私には聞こえた。「貴方」が大丈夫であるように、「私」もまた大丈夫なのだと、もういいのだと、40歳を迎えた彼女が20年前の彼女を許し抱きしめようとしたのだと思った。それでも歌われた「月光」はさすが年季が入っていて、歌い込まれていて、今でもこの1曲でそんじょそこらの曲を吹き飛ばせるほどの力は保ち続けてはいるのだけど。



そして「月光」を歌い終えた。私はこれで今夜は終わったなと思った。

しかし彼女は喋り出した。「MC省くね」という、ものすごく今更なことを。

何か珍しく挨拶でもするのかな、こんなひどい状況だけど来てくれてありがとうとか、そういう一応の挨拶みたいなのが彼女のライブだろうとあるのかなと思っていた。

違った。


「じゃあ最後の曲です。聞いてください、『嵐ヶ丘』


この一言を聞いたとき、私は無発声をきつく言い渡されているにも関わらずマスクの下で「へっ?」と声を出してしまっていた。

「嵐ヶ丘」。序盤に歌った「Beautiful Fighter」のc/w曲であり、私が第2章で「ちひろがふと正気に戻った、我に返った曲」だと書いた曲だ。


「それまでひたすら前へ前へ、上へ上へと拡大しつづけていた彼女がここで足を止めてしまう。自意識の肥大へのコントロールがだんだん利かなくなり、わたしはひょっとすると神ではなく、ただそう思い込んでいる狂った人間に過ぎないのではないか、だけどもとに戻ろうにも、もう自分で自分をコントロールすることもできない、聴衆(信者たち)もまたわたしを神の子だと信じて疑わない。後戻りができない。だったら今のわたしは何なのだろう。神でも人間でもない、

もはや、ただの「怪獣」、なのでは、ないか。」

(I My Me Mine 或いは届かないSehnsucht. 第2章「バベルの塔は崩壊する」)



この曲も「Beautiful Fighter」同様CD音源はピアノレスな音楽だが、ライブではピアノや弦の入ったアレンジで歌われる。個人的にはサントリーホールでのアンプラグドライブによる彼女の悲愴に溢れた「嵐ヶ丘」が好きなのだが、今夜の「嵐ヶ丘」は全く違う感情が音楽には乗せられていた。

イントロに合わせ、彼女は手を口の横に当て、まるでやまびこのように、呼びかけのように、「鳴いた」のだ。それは歌詞の中で怪獣になってしまった主人公の、悲しみでもない焦燥でもない絶望でもない、前向きな「鳴き声」だったのだ。




「もう誰も貴方を攻めたりしない そんなの早く脱いで」

「誰にも傷が付かないようにとひとりでなんて踊らないで」

「まともじゃなくたって  それでいいから」と

「ふつうじゃなくたって  それでいいからね」と




ああ、と、「わかった」気がした。


かつて「何故まともでいられないの?」と問うた自分に、「まともじゃなくていい」と言ってくれる友がいて、そんなあなたの曲が好きだと言う多くのファンがいて。

誰も攻めたりしないなら、傷つけてしまうことになっても誰かと踊ることが許されるなら、まともじゃなくても、ふつうじゃなくても、いいなら。



無傷で過ごせたとしても

奇妙な揺れを待っているの

心を震わせながら


だから私は逃げ出さなかった

誰でもない自分から

渦巻く空が呼んでいるの

何より大きな声で



「怪獣でいよう」

この丘で、鳴き声高らかに、私はここにいると叫んでみせよう。

この声は神へ投げかけるんじゃない、私の音楽を聴く人へ、貴方たちへ届けばいいのだ。

私の声が聞こえている貴方はひとりじゃない。私はここにいる。

雨に打たれても、風が吹き荒れても、どれだけのものがこの声をかき消そうとしても、私は呼び続けよう。力の限り、命の限り、ここにいよう。死にたくなるほどの夜が続いても、心なく傷つけられ続けて立てなくなっても、洪水のような悲しみに足を取られて倒れても、私は力の限り、ここにいよう。この嵐の丘に。


私はここにいる。嵐の丘で鳴いている。貴方へ向けて鳴いている。

怪獣になる、怪獣でい続ける覚悟を決めた私はここを決して離れない。

ここは私の丘だけど、ここから貴方を見ているよ。想っているよ。貴方のために鳴くんだよ。この声が聞こえる貴方は、ひとりじゃないんだよ。



これは例えばキリスト教的、のような「自己犠牲」ではない。彼女は誰かのために、誰かの代わりに「嵐ヶ丘」にいるんじゃない。かと言って、この嵐吹き荒れる丘へ誰かを引き寄せて道連れにしようとしているわけでもない。ただ自分はここにいると決めたのだ。ここから、絶え間なく貴方へ、私たちへ呼びかけると決めたのだ。



〈歌を通して、リスナーに手を差し伸べたい気持ちもある?〉

「何かをしたい、とか〈こうあるべき〉というメッセージはまったくなくて。ただ〈想ってる〉ということですね。その感覚はずっと変わってないです」

鬼束ちひろが新作で邂逅した20年前の自分自身――過去の旋律と現在の言葉が織り成すショッキング・ピンクの音世界



自分は嵐の中に身を投じながら他者を思い、自分の音楽を聴く無数の人を思い、彼女は歌い続ける。その禁欲的な潔さ、その、底の抜けた愛。

鬼束ちひろはどこまでもストイックで、自分の音楽に厳しくて、同じほどに自分の音楽を大事にしていて、同じだけの感情の大きさでファンを思う、自分の音楽を聴く人がいるということを心から尊ぶことができる、優しい、愛の人だ。生来愛の人だったのかもしれない、けれど20年かけて、彼女は悲愴の歌を覚悟の歌へ、他者へ呼びかける歌へと変えて見せたほどに、愛の人になった。


怪獣は今日も高らかに鳴いている。嵐の丘で、笑顔を浮かべて。






ここから第6章 HYSTRIAに繋げようかと思っていたけれど、アルバムの一曲一曲に対してはこれはこう、あれは多分こうと語るのは私の音楽的知識と感覚では絶対に足りないし、『HYSTERIA』については鬼束ちひろ自身もいくつかのインタビューに答えてもいるので、それがすべてであろうと書かないことにした。私が書けるのは、ライブという一度きりの体験で自分という個人が感じたことと、そこから見えてきた物語だけだ。

けれどこれを、「UNHESITATE」を、『HYSTERIA』を鬼束ちひろの新章と言わずして何と言うだろう。紛れもなく彼女は、4年前の『シンドローム』からもう一つ新しい扉を開けたのだ。

追いかけたい。これからもずっと、絶対に追いかけたい。見ていたい。聴いていたい。応援していたい。彼女がデビュー20周年であるなら私だってファン20周年で人生の2/3には鬼束ちひろの音楽が存在しているのだ。人生の最初10年なんて自我がないも同然なのだからカウントしなくてもいいくらいだ。もはや人生だ。

鬼束ちひろは私の人生だ。


今から、別の第6章が書けるが日が来ることを楽しみにしている。






『HYSTERIA』にまつわるインタビューたち




「UNHESITATE」のライブレポート


私たちが住んでいた学生寮は地下1階にランドリールームがあり、コインランドリーでよく見るような横置きの洗濯機が数台並んでいた。いつも鍵が開いていて、私はここで数回下着を盗まれた。洗濯機の中を開けて、下着の入ったネットをわざわざ見つけ出し、器用にパンツだけを盗んでいくとはご苦労なことだった。泥棒のせいで私の下着はあっという間にストックがなくなり、H&Mで安い下着をまとめ買いさせられた。純然たる無駄な出費だった。洗濯室に張り込んで泥棒をぶん殴る計画を立てかけたが、ひたすらに面倒だった。初めて盗まれた時は相当にショックを受けたけれど、数回やられれば心も麻痺していく。



洗濯カゴを抱えてエレベーターに乗る。ランドリールームにやってきて、数台あるうちの一台の前にしゃがみこむ。洗濯物を詰め込んでから異変に気づいた。どうも蓋が閉まらない。壊れているかもしれない洗濯機を使って何が起こるかわからない。私は一度洗濯物を全て取り出して、隣の洗濯機を使うことにした。

エレナがやってきたのはその時だった。彼女は私の隣にしゃがみこみ、さっき私が使うのをやめたその洗濯機に自分の服を詰め始めた。詰め終わった彼女は私と同じように蓋を閉めようとして、首を傾げた。

多分、その洗濯機壊れてると思うよ。私が声をかけると、そうみたいねとエレナは答え、他の洗濯機を見回した。私はすでにスイッチを押したところで、タイミングが悪く、空いている洗濯機はエレナが使おうとしている壊れているかもしれないその一台だけだった。また出直したら、と言おうとして、また別の誰かが入ってきた。エレナは壊れているかもしれない洗濯機の蓋と戦っていて、見知らぬその人は洗濯機が壊れていることも知らず、エレナに助け舟をだす。その人の力もあってようやく蓋は閉まり、洗濯機は動き出した。ありがとう! エレナは顔を輝かせてその人にお礼を言った。


私が部屋で洗濯物を干し終えて、ぼんやりパソコンの画面を眺めていると憤然とした様子でエレナが戻ってきた。彼女が抱えていた洗濯カゴの中の服たちはびしょ濡れで、明らかに脱水が上手くいっていなかった。エレナは何も言わず怒りを露わに、びしょ濡れの靴下を床に叩きつけた。だから言ったのに。私はエレナに声をかけなかった。


そういえばあのランドリールームには下着泥棒が出ることを、ついぞエレナに言わなかった。




エレナは体だけが国を越えてここに来て、心は家に置いてきたままのような人だった。他の同居人が皆玄関で靴を脱いで部屋に戻っていくのに、エレナだけは部屋に戻ってベッドに腰掛けようやく靴を脱いだ。エレナのスニーカーは常にベッドの脇にあった。

エレナはあまり物を食べなかったし、食べているところもあまり見ないままだった。エレナはとても細い人だった。

エレナはよくスカイプでお母さんと話していた。スカイプが繋がっている時だけ、エレナはエレナでいるように見えた。ドイツ語が話せなかったエレナは誰に対しても英語で、そもそもあまり話そうとはしなかった。そんなエレナにはスカイプだけが唯一の拠り所だったのかもしれない。エレナは私の隣で1時間でも2時間でも話し続けていた。それがあまりに早口だったから、聞くつもりがあろうとなかろうと私にはエレナとお母さんの会話がさっぱりわからなかった。


エレナは画面の前でよく泣いていた。初めてそれに遭遇した時は私もさすがに驚いて、話し終えた彼女に大丈夫? と声をかけたりもした。エレナは大丈夫ありがとうとそればかりで、私はそのうちエレナが泣きながらスカイプをしていても何も言わなくなった。



エレナはよく旅行に出かけた。エレナがいない二人部屋は広々として、静かで、私は内心エレナが旅行に出てくれると喜んだものだった。私は国を越えてここに来ても結局腰は重いままで、休日もほとんど街を歩き回るだけで過ごしたし、帰る場所はいつもあの二人部屋だった。私はエレナの不在に慣れていた。数日いなくなって、帰ってきたエレナにどこに行ってきたのと聞くと、そのたびエレナは色んな国の名前を挙げた。スロヴェニアに行った翌週にスロバキアに行くようなエレナだった。




クリスマスから冬休みが明けるまで、エレナは長い旅行に出た。エレナはいつも行き先を告げない。いつ帰ってくるのかも告げない。相変わらず腰が重い私はせいぜい特急列車で日帰りできるほどの街にしか行かず、誰もいない部屋に帰ってきては、今日もエレナは帰ってこなかったと、不安と安堵がないまぜになった思いを抱えて眠りについた。



長い旅行から帰ってきたエレナは憂鬱の海に落ちた。口数も少なく、私とエレナの間に交わされる会話はそれぞれが部屋に帰ってきたときの"Hi."だけになった。私はそれで平気だった。私ももともと、話すことは得意じゃない。それに他の同居人とはドイツ語で話すのに、エレナと話す時だけは英語に頭を切り替えなくてはならなくて、それがますます、エレナとの会話を億劫にさせた。エレナもまた、他の同居人との会話を億劫がっているようだった。


その日もエレナは泣きながらスカイプをしていた。特にひどい夜だった。見かねた画面の向こうのお母さんが「エレナ、あなたはもうすぐ家に帰って来られるのよ」と言ったのを聞いた。それは彼女に言い聞かせるように一語一語しっかりと発話されたので、私は偶然聞き取ってしまったのだ。そして私は、エレナとの別れが近いことを知った。



私は大学の近くにある文具屋に出かけ、便箋と封筒を買った。いつも行き先も帰る日も言わずに出て行くエレナだから、別れの日も伝えてくれることはないだろう。それでも私はこの手紙を、なぜか絶対に渡せるものだと思っていた。この手紙はきっと間に合うだろうと思っていた。「エレナへ」と、短い手紙を書いた。あまり話すことはなかったけど、半年間ありがとう。アメリカに帰っても元気でね。決まり文句だけの手紙は、そのまま私たちの没交渉を表していた。

その日はとても寒い日で、天気予報はマイナス10度なんて、すぐには信じられない気温を示していた。私は朝から授業があった。服を着込み、コートを羽織り、カバンの中にはエレナへの手紙を忍ばせて、部屋を出た。エレナは昨日と変わらない穏やかな笑顔で"bye"と私を見送った。私も"bye"とだけ、少しだけ手を上げて、部屋を出た。


それがエレナを見た最後だった。




The day you slipped away

Was the day that I found it won't be the same




授業を終えて夕方に帰ってきた私は、玄関のドアを開けた瞬間、ここが昨日までの空気と違うことを感じた。リビングのテーブルに置かれていた一枚のメモを見つけ、それは確信に変わった。


Sorry to run.

but I hope you all the best.

Elena



私は私とエレナの部屋の前でしばらく立ち尽くしていた。こんなに、この部屋に入りたくないと思ったのは初めてだった。それでも私は、開けなくてはならなかった。

エレナはいなかった。エレナが使っていた机の上は、何も残らず綺麗になっていた。いつも綺麗に服が畳んで並べられていたエレナのクローゼットは空になって、ベッドはシーツが剥がされて、マットレスが残されているだけだった。エレナがいつも使っていた大きなバックパックも、キャリーケースも、何も。何も。

私は振り返って自分の机の上を見た。私に、何か残してくれたものがないかを縋る思いで探した。

何もなかった。私の机には私の物しかなかった。

カバンを床に落とし、コートも脱がないまま、私は自分の椅子に座る。改めて、何もなくなってしまったエレナのスペースを見た。床に落としたカバンの中にある手紙を思った。今夜、渡すつもりだった。間に合うと思っていた。これだけは渡せるものと信じていた。

何の気配もなかった。今朝。エレナはいつも通り、パソコンの前に座っていた。私に振り返って、"bye"と見送った。それは毎日のエレナ、見慣れたエレナだった。


エレナは行ってしまった。いつも通り行き先を告げることなく、けれどもう永遠にここには帰ってこない。

片側だけがぽっかりと綺麗になったがらんどうの部屋で、何とも比較ができない不在の大きさに、人ひとりがいなくなるだけでこんなにも色が変わる空気に、嗚咽を憚らずに泣いた。



エレナ、旅行じゃないんだから。
これは旅行じゃないでしょ。ねえ、エレナ。



It wasn't fake

It happened, you passed by




"Sorry to run" -エレナは、ここに居られなかったのだろうか。最後までここはエレナにとって、辛いばかりの場所だったのだろうか。ルームメイトが同じアメリカ人だったなら、エレナは寂しくなかっただろうか。私だったから、対話が苦手な私だったから、もしかしたらエレナは。



Now you're gone, now you're gone

There you go, There you go

Somewhere, I can't bring you back



不在がちなエレナと、いつも部屋にいる私。ドイツ語をそれなりに話す私と、最後まであまり上達しなかったエレナ。幸いにも体も心もここに持ってくることができた私、心だけはどうしても持って来られなかったエレナ。いつも泣いていたエレナ。洗濯物にも怒ってしまうエレナ。それでも雨が降れば、私の洗濯物を取り込んでくれていたエレナ。


エレナ、この街の冬はとても寒いね。

とても、寒かったね。





それから数日を部屋でひとり、誰とも顔を合わせずに過ごした。ようやく部屋から出られた日、階段を降りると向かいの一人部屋に住むイレーネがソファに座ってコーヒーを飲んでいた。イレーネは私を見て、小さく微笑んだ。エレナのことは互いに触れないまま、私とイレーネは何も言葉を交わさないまま、しばらく同じ時間を過ごした。外は止む気配のない雪、天気予報は変わらずマイナス10度。暖房のよく効いたこの部屋はまるで冬の海の中に浮いた箱のようだと思った。


部屋を掃除した。エレナのスペースの分まで掃除機をかけた。カバンに入れたままだったエレナへの手紙を、私はそっとゴミ袋の中に入れた。



エレナの行き先は、いつも、誰も知らない。




lyrics

Slipped Away / Avril Lavigne


2011年にオーストリアに留学していた時にルームメイトだったエレナ(仮名)にまつわる記憶です。Facebookも繋がっていないし、今どうしているのか知るすべはないけれど、アメリカのどこかで今も元気に過ごしていることを願っています。