朗らかな街の、川のほとりから

今年の6月で30歳になった。


大学進学を機に神戸にやってきて、就職で大阪に移り住んで、気づけば10年以上関西に住んでいる。

1年間のオーストリア留学を中に挟んだ5年間の学生生活を経て、私は就職活動をして「普通の」会社員になることにした。今の生活は、その念願を叶えて得たものだ。私は今、川のほとりの会社員だ。


けれど、就職活動から今に至るまで、自分の将来、自分の夢のことを常に考えてきた。今は会社員でもこれは今だけのことで、いつか私は「何か」になってやるのだと思っていた。就活をせずに演劇などの芸術分野に飛び込んでいった同期、大学院に進学した同期、そしてSNSを見れば自分より若くして起業したりフリーランスで活躍している人たちがいて、私には彼ら彼女たちが羨ましかった。何より、「何者かになれ」という自分が常に私をまなざしていて、その視線が常に体を貫いていた。


夢は、たくさんあったと思う。例えば20代のうちに文学賞を取って本を出版したいという夢。それが叶わなくても文筆業で食べていきたいという夢。ワーキングホリデー制度を使ってもう一度ドイツ語圏に住むという夢。会社を辞めて、私のことを誰も知らない街へ移住するという夢。


どれも、全くできないことはないはずだった。実際、書いた小説を何度か新人賞に応募して、一次選考くらいなら通過したことがある。諦めずに応募を続けていれば、いつか賞を手にすることがあったかもしれない。ワーキングホリデー制度は30歳までが対象だから、今から準備したらまだ間に合うだろう。国内移住なんて、海外のそれと比べればもっとハードルは下がるはずだ。


けれど、もしも今、世界中がコロナ禍の中に塞がれていなかったとしても、きっと私はここに留まり、会社員としての生活を続けていただろうと思う。



長い物語が書けなくなっていくのを自覚していた。何度新しい構想を練り、今度こそはと思って書き始めても、どうしても途中で手が完全に止まってしまうことが続いた。そのトライアンドエラー自体が苦痛だった。小説を読むことすら嫌になった時期があった。私は疲れていた。疲れていると自覚したくなかったけれど、公募に挑戦すること、そのための小説を書くことに、私は確かに疲れてしまっていた。


年々、夢を肌身離さず抱えていることは難しくなる。夢を抱えつづけるための体力がなくなっていく。「どうしても」という気持ちはどんどん薄まっていく。本当の本当に叶えたかったことなのか、わからなくなっていく。将来の夢は、日々の生活に塗り潰されていく。


長い時間をかけて、夢はひとつずつこの体から離れていった。手と手の間をこぼれ落ちるようにして、あるいは張り付いていた体からごっそり剥がれ落ちるようにして。



30歳になり、私は、とても身軽になっているような気がする。身軽というのは必ずしも良い意味だけではなくて、それまで持っていたものが離れていくどうしようもなさ、さみしさ、悲しさ、まるで地に足がついていないような寄る辺のなさもそこには伴う。

自分が何か凡庸な、誰でもない人になっていくことへの小さな恐怖はかさぶたのように残りつづけ、今でもインターネットにはささやかな文章を綴っている。大好きな読書や映画や音楽にも、文章の材料を探している。夢が体から離れていっても、「ものを書く自分」の存在を自分で忘れてしまいたくなかった。それを忘れた日こそ、私という存在は終わってしまうのだと強迫的に信じていた。その日が来ることこそを、心の底から恐れていた。



そんな日々を続けていたある日、私のSNSに匿名のメッセージが届いた。


「凄く一所懸命に戦うように働いて、頑張って御飯を食べて、映画をみて、本を読んで、文章を求めて生きてらっしゃるのが伝わります。世界や他者から名づけられなくても、それはとても美しいことだと思います」


私はこのメッセージを送ってくれた人を知らないままでいる。けれどこの丁寧に綴られた言葉のひとつひとつは私を大きくふるわせた。


身軽になっても、誰でもなくても、場所を移らなくても、「やめない」限りはどこかに見ていてくれる人がいる。望んだ形ではなくても、私の文章を読む人がいて、私に声をかけてくれる人がいる。私は文章を求めて生きているのだと、私自身ではない誰かに言ってもらえたことに、床が抜けたような安堵で私の体はいっぱいになった。同時に、この道でも私は大丈夫だったのだと、ようやく思うことができた。



ワーキングホリデーや会社を辞めて新しい土地へ移るという「居場所を変える夢」も、私は「そこに行けばすべてが叶う夢の場所」「責任を持たなくてもいい場所」を求めていただけだったのだと今なら分かる。そんな都合のいい場所は存在しないし、どこに住んでもその国や土地なりの苦労や痛みは伴う。


それなら私は、まだ20歳にもなっていなかった私を受け入れ、学ぶ場所、働く場所を与えてくれた関西という地を大事にしたい。私はただ住んでいるだけの身だけれど、私は、この街が確かに好きだ。私の住民票はこの街に帰属し、参政権も住民投票権もまたこの街にある。もちろん、住民税だって払っている。関西は寄る辺のなかった若い私を受け入れ、成長した私はその関西へ、仕事や税という形で少しずつ、あの無償の慈愛に溢れた日々を返していっているのだと思う。



先日、二度目の大阪都構想の賛否を問う住民投票が実施され、またも僅差で否決となった。私は安堵している方の人間だし、大阪がこの形のままでより良い街になっていってくれることを願っている。けれど、今の大阪がすでに苦しくて、突破口を求めて賛成へ票を投じた人もいる、それも、この住民投票では賛否はほぼ互角であったことに鑑みれば、そう思っている人は決して少なくはないはずだ。それでも私は政治や為政に詳しくない身でありながらも、私の尺度でしかないが、街の将来を思った選択を、示し続けていくしかないのだろう。私は大阪の生まれでもないし、帰ろうと思えばいつでも故郷に帰られる。けれど今この時は、私は「大阪市民」で、「私」の街は大阪市なのだから。



大阪市にはオフィス街を東西に流れる堂島川という川がある。

22歳の冬、その日の就活の予定を終え、パンプスに疲れた足で一人とぼとぼと橋を渡り、ふとこの川の流れに目をやったとき、そこに広がる景色に私は思わず足を止めた。

川の両側に建つ洗練されたビル群、空中にうねる阪神高速、その下をくぐって私に向かう風、決して美しいとは言えない川の色、それらすべてを照らし染める夕日の惜しみない金色。

あのとき、何もかもは美しかった。いつまでも見ていたかった。大阪にもこんな美しさがあることを、あの橋を渡るまで私は何も知らなかった。


思えばあの日に、もう私の心は決まっていたのかもしれない。決めたからこそ、大阪の会社員として生きる今があるのかもしれない。



仕事を終えて帰路につくとき、今でもこの川とビル群の美しさに心が震える。明日になれば、朝の晴天の下できらきら光る川に見送られて出社するだろう。私は大阪で働く会社員。本を読んで映画を観て、文章を書く。大阪という街、会社員としての私、文章を書く私のどれもが、私の世界を彩っている。


大阪市は美しい街。荒れても汚くてもガラが悪くても民度が低くても、私にとっての大阪市は、22歳の目が見たままの、美しい街。あの光景を信じている。いつまでも、信じている。



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