孤独を煮詰めたもつ鍋をばくばく食べた夜

私が在学していた学部は「講座」と「コース」という言葉で専攻をカテゴライズしていて、私は「現代文化論講座」の「芸術文化論コース」の中に身を置いていた。これだけで私がどこに在学していたのか分かる人には分かるのだろうがこの「芸術文化論コース」略して「芸文」という単語を使わないことには私が不便で仕方がないのでここで正直に書いておく。


芸文には卒業時、私を入れて5人の同期がいた。そしてこの同期たちは、ドイツ、オーストリア、スペイン、アメリカとてんでばらばらに1年間を高飛びして帰ってきて、5カ年計画で卒業を目指した5人組だった。そして、各々が勝手に高飛びするまでは、私は決して彼らと仲が良い訳ではなかった。そもそも私は学部の同期に仲のいい人が少なかった。そして、最終的にはこの5人組になる芸文ズについても週に一度のゼミで顔を合わせてそれぞれの発言をなんとなく聞いてなんとなくやり取りをして90分が終わればとっとと部屋を出て来週まで一度も口を聞かないしそもそも顔を見ない、という有様だった。それが2年生の終わりまで続き、すると各々が勝手に交換留学や自主留学を決めてきて3年生の夏、私たちは花火が弾けるがごとく一気に散り散りになった。そして散り散りになっていた1年間にも、全くやり取りはなかった。強いて言うなら留学してから必要に迫られてアカウントを作ったフェイスブックにドイツに飛んだ人間から友達リクエストが来て、あんたと私は友達なのか?と半ばイラつきながらしぶしぶ承認した程度のことくらいしかなかった。私の性格は悪かった。


1年間の留学を終え、私たちはまた元のゼミ室へ帰ってきた。そこでようやく私は彼ら彼女らに親近感を持った。私はこの人たちと卒業することになるのだと、遅すぎるくらいの気づきが突然にやってきたのだった。

そして他の芸文ズもまた、私に対して気安くなった。同じ留学を経た親近感なのか、いい加減顔を合わせるのにも慣れてきたのか、とにかく私たちは奇妙なことに留学から帰ってきてからようやく打ち解けるようになったのだった。



けれど打ち解けたからと言って毎日一緒にいるようになったわけでは全くなかった。やっぱり私たちは週に一度ゼミ室でしか顔を合わせなかったし、院に進学する二人を除いて残りは就活に身を投じ、週に一度すら顔を合わせないことも当然のようにあった。就活情報を共有しあうなんてことも一切なかった。全員が全員の進路を知らないも同然だった。私たちは同じコミュニティにいながら全く勝手に生きていたのである。誰に最初に内定が出たとか、そんな情報が回ってくることもなかった。そして極め付けに、私たちは誰も自分以外の卒論のテーマを知らないまま夏まで来たのだった。

卒論については、私の学部では7月、10月に中間発表、12月が提出〆切、1月に口頭試問というスケジュールで進む。7月になるまで、誰も自分以外の卒論のことを知らなかった。そしてこの中間発表においても、「芸術文化論」というざっくりしすぎたカテゴライズのおかげでまたもテーマが散り散りになりすぎていて、質疑応答をしようにも、共有できる文脈が一ミリもなかった。なんか知らんけど、この人はジョージア・オキーフの雲、この人はシアトルのパブリックアート、この人はドイツのコンサートホール、らしい。らしいというのは、話を聞いても本当にそれで合っているのかも分からなかったからだった。私たちに共通した文脈はなかった。なかったので、またも私たちは中間発表を終えるとそれぞれに消息が分からなくなる。卒論の進捗も、何も、知らない。順調なのか行き詰まっているのかやばいことになっているのか、何も、知らない。



それでも各々がどこかで「書いている」「調べている」ことだけは確かで、少なくとも私は、それだけでよかった。おそらくもっとも消息不明だったのは私だった。毎日朝から晩まで大学の図書館に缶詰になっていたが、なっていたからこそ、誰も私の足取りを掴むことはなかった。

各々は勝手に卒論を書いていた。書いて、直して、行き詰まって、先生に相談して、また書いて、その全てを勝手に進めた。


そして提出〆切まであと1週間、というところになって、突然にグループLINEが動き出した。提出日にみんなで鍋を食べに行こう。駅の近くにいい店知ってるんだけど。もつ鍋なんだけど。いいねえ。行こう行こう。

みんな生きてたんだ、と思った。





提出日を一週間後あたりに控えて私は盛大に、派手すぎる風邪を引き、熱だけは下がったが提出日当日はほとんど、全く声が出なくなっていた。当日の朝に製本の仕上げにやってきた芸文ズのひとり、シアトルパブリックアートの彼女とたまたま鉢合わせ、私のガッサガサの声を聞いて彼女はげらげらと笑った。大型の穴あけパンチの前に座って渾身の力でバコンと論文に穴を開ける私の姿を彼女は写真に撮った。それから二人でテーブルに座って紐を通し、表紙をつけて、互いに自分の卒論を持って記念撮影をした。それから二人で受付に完成したばかりの卒論を提出して、揃って無事に受理された。肩の荷が降りた私たちは、じゃあまた夜にねと、そこで別れた。

夜の学校前に集合した芸文ズは、揃って私の声に呆れた。話題はあちこちに飛びながら私たちは坂道を降りた。この5人で学校から帰るのは、卒業を3ヶ月後に控えて初めてのことだった。



初めて入る店で、揃って靴を脱いで、煮えたぎるもつ鍋を囲み、私たちは5人で初めて乾杯した。それぞれが今まで何と戦ってきたのか、何に悩んで何に行き詰まってどうやってそれを乗り越えたのか全然知らない、もちろん完成した卒論も、導き出した結論も、全く何も知らないけれど、知らないままで、ビールをがちゃんと合わせた。お疲れお疲れお疲れお疲れおづがれ〜。私の声はガサガサだった。それを皆がげらげらと笑った。

もつ鍋の具材を放り込み、火の通った具材から勝手に箸で取り、私たちは最後まで勝手なことを勝手に喋り続けた。今となってはあの夜何を語り合ったのか全く覚えていない。なにせ一ミリの文脈も共有することのなかった私たちだったので。




あのもつ鍋には、この夜に到るまでの5人分の孤独も一緒に煮詰められていたのだと思う。それぞれ、孤独に書いてきた。てんでばらばらなテーマだったがゆえに助け舟を出せるようなものでもなく、それぞれ、たった一人で書いてきた。その孤独があのもつ鍋には5人分、きっちり詰め込まれていた。私たちの孤独は混じり合って美味しいもつ鍋になった。私は5人の孤独を、私を含めた5人の孤独をばくばくと食べた。全員が、全員の孤独を平等にばくばくと食べた。あれはきっと儀式のようなものだった。この場所に到るまでの孤独を昇華するための。成仏させてやるための。




鍋が空になっても私たちは延々と喋り続けた。それでもなにを喋ったのかを一ミリも思い出せない。ラストオーダーの時間を過ぎ、ようやく私たちは立ち上がる。真冬の神戸、突き刺すような冷えた夜、息が白くなるのも許さぬほどの乾いた空気、店の前でじゃあねと別れた。口々にお大事にと言われた。その私はしばらく歩いて店にスマホを忘れたことに気づいて引き返し、本当に一人で帰ることになった。マンションまでの30分ほどの道のりを、私は一人で歩いて帰った。スマホのカメラが撮った、たった一枚の鍋の写真だけをポケットに持ち帰って。




書くのはとても孤独な作業だからさ

  _ヤマシタトモコ『違国日記』5巻


書くことに限らず、私は、私たちにはいわば初期装備のように孤独を、生まれたその瞬間から搭載していて、それを引き受けて、生きていくのだと思う。


そもそも、人間は一個体としてしか存在できない時点で孤独でしかありえない。生まれたときから一人で、たった一つの存在で、そのあり方が、孤独でないわけがない。生きることは、孤独を引き受けることだ。自分に与えられただけの孤独を引き受けることだ。

「寂しくて死んでしまう」という強い感情があることは否定しないし、実感としてどういうものかも知っている。けれど寂しくても、どれだけ寂しくても、私は、私以外の誰かと、同化することは決してできない。私が一個体としてしか存在できない限り、私は、私一人であり続けるしかない。


孤独は苛む。涙が溢れる。怒りも生む。誰かを求める。それでも、あなたは、誰とも、同化できない。その寂しさを、代わりに引き受けてくれる人は世界にどこにも存在しない。あなたの足がどれだけ速くても、その寂しさを遠く引き離せることはない。あなたが誰と、強い力で抱き合ったとしても、その皮膚と皮膚は、混じり合わない。あなたと私がどれだけ言葉を尽くしたとしても、私の感情の形が完璧な形を保ったままにあなたの脳へ入り込むことはない。私たちは絶対的に孤独で、寂しくて、きっと永遠に分かり合えない。それを、誰のせいにすることもできない。


卒論の出来不出来を誰のせいにすることもできない。同じコースに属していても全く話は噛み合わない。同じ芸術を愛そうとも見据える視線の先は違う。大学に残る選択があり社会に出る選択があり、それが何よりも、私たちがただ個人であり、その事実は他のどんな事実にも先立つものであるということの証明なのだ。


私たちは個体で、個人で、一人だ。だけどそれは、私にはこんなに素晴らしい。誰も消息もわからなくていい。誰も私の消息を知らないままでいい。誰のテーマも知らないままでいい。知らなくても、そこにいるあなたの存在を尊ぶことはできるのだ。あの夜がちゃんと鳴らしたビールグラスの音が、個々の存在の祝福であり、尊びの音であったように。



ひとつにならなくていいよ

認め合うことができればさ

もちろん投げやりじゃなくて

認め合うことができるなら

ひとつにならなくていいよ

価値観も 理念も 宗教もさ

ひとつにならなくていいよ

認め合うことができるから

それで素晴らしい

  _Mr.Children 「掌」


2003年の時点で桜井和寿がその境地に達しているのだからできないことなんてないと、思っている。私はあのとき一人で、消息不明で、話が噛み合わなくて、5人全員がそうであったことが、本当に素晴らしい5人であり日々であったと、思っている。



孤独は苛む。誰と居ても、何をしても、きっと生涯、私を苛む。

けれど私は、私の孤独は素晴らしいと言うだろう。私の孤独を人任せにすることはこの先の人生、きっと無いだろう。私は私の孤独を引き受けるだろう。孤独の色を見て、形を触って、音を聴いて、思うだろう。

私の孤独はかつてあんなに素晴らしくて、そして今も、こんなに素晴らしいのだ。



わたしにとって自分の感情はとても大事なもので

それを踏み荒す権利は誰にもない

それに 誰も 絶対に

わたしと同じようには悲しくないのだから

  _ヤマシタトモコ『違国日記』5巻

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