鐘を鳴らして、両手で
私の祖母は、私が産まれて、私の「手」に一目惚れをした。
「なんて綺麗な手えした子けねって、顔も見んとずっとあんたの手ばっかり見とったわ」
夢見がちで時折思春期の少女のようなことを言う祖母は、幼い私に繰り返し、繰り返し、産まれたばかりの私の手がどれほど美しかったかを、それがどれだけ祖母の心を捉えて離さなかったかを、うっとりと、まるで私が産まれた病院を訪れたあの日奇跡に立ち会ったかのように、夢を見ているような声で語って聞かせた。幼い私が飽きるほどに、絶対に忘れさせまいとするかのように、何度も、何度も。
その祖母の言葉を知ってか知らずか、私は近所に住んでいた同い年の男の子と一緒に近所のピアノ教室に通い始めた。わずか2歳での出来事だった。
当然、2歳児がピアノに触れるはずもなく、最初はカードに描かれた音符でドレミを覚えるところから始まった。週に一度、30分の時間だった。これは、私がついにこの教室を離れる時までずっと、週に一度、30分の時間だった。
実際に鍵盤に触るようになったのがいくつの時だったかは覚えていない。家にやってきた電子キーボードの前に正座して、私は小さな両手で、大きな音符で書かれた楽譜を見て、がちゃがちゃした指の動きで、練習をした。隣にはいつも母がいた。母が見守る中で、私はいくつもの子供用の音楽を練習した。たまに癇癪を起こしてキーボードをひっくり返して母に烈火のごとく怒られた。私は時に泣きながら、鍵盤に向かわされていた。練習は決して好きではなかった。同じところを何度も弾くのはつまらなかった。先生は毎日練習しなさいと言った。私はその言いつけを、ほとんど守っていなかった。
私のピアノの先生は、まずは子供たちが音楽に、ピアノに親しみを持つように、バイエルなどの教則本はあえて使わずに、子供がよく歌う童謡のピアノ教本を使って生徒に教えた。そんな先生だったから、私はピアノを続けられたのかもしれない。知っている曲が弾けるようになるのは楽しかった。好きな曲の時だけ熱心に練習した。興味のない曲はほとんど練習しなかった。そんな私に先生はいつも困り顔だった。困った顔をしながらも、ちいちゃんは練習じゃなくて、いつもセンスと才能で何とかしちゃうタイプなのよねと笑うのだった。
ピアノ教室には年に一度の発表会があって、生徒は必ず参加することになっている。年に一度の大きな発表の場なのだから、みんな当然気合が入る。小さい子たちはドレスまで来たりして、精一杯におめかしして、大きなグランドピアノの前に座る。ペダルに足も届かない姿のあどけなさ、それでも全身からにじみ出ている緊張、ぴんと伸びた両腕、彼ら彼女たちのひたむき、真摯さ。それらはかつては私自身が体験し、やがて通り過ぎて行ったもの。ペダルにも足が届くようになった身で、客席から彼ら彼女たちの姿を見るようになって、それはとても懐かしく映り、同時に、皆が世界でいちばん輝いて見えた。
小さな子が、自分の体の何倍の大きさもある楽器に向かっていく姿は、そこに光が当たる様は、20年前でも、今でも、そしてこれから20年が経っても、きっと、変わらないものだろう。
小学6年生だった私は、2曲のJ-POPを弾いた。一青窈の「もらい泣き」とYa-Ya-yahの「世界がひとつになるまで」だった。
私は「もらい泣き」が弾きたかっただけだったけれど、それでは曲が短いと言われて、「世界がひとつになるまで」を一緒に弾くように先生から勧められたのだった。
正直、私はこの曲を知らなくて、アニメの主題歌であることも知らなくて、ふうんと思いながらも、まあメロディも和音も綺麗で弾きごたえがあるし、原曲を知らないでもまあいいかとそれなりに楽しく練習して、発表会に臨んだ。
小学6年生ともなれば発表会でもそれなりに後半の人になっていて、もちろん数もこなしていて、生来あまり人前で緊張しない性格だったのもあって、舞台袖に立った時も、さて頑張ろうくらいにしか思わないのがかつての私のいいところでもあった。
1曲めの「もらい泣き」を弾き終えて、2曲めの「世界がひとつになるまで」に移る。
少しの熱さを感じるくらいの光を真上から浴びながら、1曲めで程よくほぐれてよく動くようになった指で弾き始める。最後まで知らないままの曲だったけれど、それなりに気に入っていたな、綺麗な音楽だったなと、弾きながら私はそんなことを思っていた。
曲の半分を弾き終えて、そろそろ終わりに向けて指にも力が入ってくる頃だった。
鍵盤の視界の端、客席のいちばん前に座っていた小さな男の子が、私のピアノに合わせて声もなく歌を口ずさんでいたのを見た。
その姿が目に入った瞬間、心が何かぱちんと入れ替わったような気がした。
私はこの子のために弾くのだと、心から思った。この子がすらすらと心地よく歌えるように、歌い終えられるように、私はこの曲を最後まで弾かなければならないのだと強く思った。
私のピアノはきちんと誰かに聴かれているのだと、そのとき初めて自覚した。私のピアノを聴いて、原曲や、アニメのワンシーンを思い出し、口が自然と歌をうたい始める、そういうことは確かに起こるのだと、ピアノはそう「できる」のだと、10年ピアノに触れてきて、初めて気づいたのだった。
あの子が口ずさんでいる姿は、今も私の目に焼き付いて忘れられない。鍵盤が一直線に並んだ視界の隅の隅、舞台の光が眩しくて客席がほとんど見えなかった中、最前列に座っていてくれたからこそ見えた、きみの口元。きみが歌う声のない歌詞。楽しそうに揺れる、きみの小さな肩。
ピアノは、ずっと私の生活の中にあった。幼稚園、小学校、中学校、どれもに、ピアノは溶け込んでいた。私はピアノとともにあった。練習嫌いは相変わらずだったけれど、私の一部はピアノであって、ピアノは私の生活だった。
中学生になって、そろそろクラシックにも興味が湧いてきた私は、いつだったか、ふと聴いた1曲に心を奪われた。
それがフランツ・リストの「ラ・カンパネラ」だった。
私は決して手が小さい方ではなかったけれど、なぜかオクターブの可動域が狭かった。手をいっぱいに広げても、私と同じほどの手の大きさをした先生が楽に指を広げて弾けるオクターブを越えたメロディが私には弾けなかった。中学生にして、もうかなり長く自分がピアノを教えてきた私が「こう」であったことに、先生はかなり遅れて驚いた。先生も私の手の欠点に、今まで全く気づいていなかったのだった。
だから、そんな私の手が「ラ・カンパネラ」を弾くのはおそらく人より難しかっただろうと思う。もとよりリストの超絶技巧練習曲の一部として在った音楽なのだから難しいのは当たり前で、これが弾きたいと言って無邪気に弾けるようになる曲では全くなかった。それは私の手がどうであろうと、まず、技術の問題が厳然としてそこにあった。
それでも中学生の私は先生に伝えた。いつか発表会で「ラ・カンパネラ」を弾きたいのだと。
すると先生は私の希望をあっさり否定することもなく「いいね」と言った。それから先生は独り言のようにこう続けた。
「ピアノの技術っていうのは、私が思うに、多分18歳くらいでピークに来るんだよね。そこからあとは、その技術をひたすら維持するために頑張るの。だから、ちいちゃんが18歳くらいでカンパネラを弾くのが一番いいと思うし、私も嬉しい」
先生の言葉を、私は少し、ぽかんとして聞いていた。技術に頭打ちが来るなんて思ったこともなかった。先生は今でも素晴らしく上手にピアノを弾くし、だけどその力はもう頭打っているものだったなんて。
18歳。私が18歳を迎えるまで、あと数年。
14歳でショパンの「幻想即興曲」を弾いた。15歳で「革命」を弾いた。そして16歳で「英雄ポロネーズ」を弾いた。
気づけば高校生になっていた。高校受験は全部を放置していても問題ないくらいだったからピアノを弾いていられた。けれど入学した高校は、県下有数の進学校だった。毎日学校から帰ってきて、そこからさらに2、3時間勉強して課題をこなしたり明日の授業の予習を済ませたりしてやっと授業についていけるような学校だった。部活もそれなりに忙しかった。演劇部の脚本を一手に任されていた私は勉強もしなければならなかったし、脚本のための時間も作らなければならなかった。どうしても、時間が足りなくなっていった。ピアノのために作れる時間が、どうしても、どこを探しても、なくなってしまっていた。
16歳の終わりに弾いた「英雄ポロネーズ」は、ほとんど全然ダメだった。なんとか必死に、精一杯練習したけれど、「足りない」ことは自分にもはっきり分かっていた。舞台袖で、あんなに怖い思いをしたのは長くピアノを続けてきて初めてだった。本当に怖かった。待機用の椅子に座って、私はずっと指を組んで祈っていた。守ってください、誰でもいい、守ってください。最後まで弾かせてください。ずっと、涙をこらえて祈っていた。
「英雄ポロネーズ」は、10分以上の時間をかけて弾き切った。しばらく椅子から立てなかった。スタインウェイのピアノはさすが、プライドが高かった。お辞儀した時に受けた大きな拍手を、他人事のように聞いた。ぼんやりした頭で、鳴り響いているのが私への拍手だとは思えなかった。
それが私の最後の発表会になった。
私は18歳までピアノを続けることができなかった。進学校を選んだのも自分で、脚本を書くことを選んだのも自分で、全部、自分が選んだことで、ピアノへの時間を失くしたのも自分だった。私だった。ピアノを生活から遠ざけたのは私以外にいなかった。
先生は責めなかった。自然と教室に来なくなった私に何も言わなかった。
15年が、ピアノとともにあった生活だった。
辞めた習い事はいくつもある。だけどそれは明確に辞めたい意志があって辞めた。だから後悔はなかった。
けれどピアノだけは、ピアノだけはできるなら辞めたくなかった。練習は確かに嫌いだった、でもピアノが嫌いなわけじゃなかった。好きだった。ピアノが好きだった。他のいろんな楽器を試してみても、ピアノ以上に美しい音を出す楽器はないと心から思っていた。
自分はどんな高校に進学しても、ピアノは弾き続けるものだと当たり前のように思っていた。だけどそうじゃなかった。続けられなかった、続けたかった、ピアノが好きだった。
私はピアノが、ピアノが大好きだった。
大人になった。大学を卒業して社会人になった。休日になるとほとんど日課のように映画を観に行く会社員になった。
ある日観に行ったフジコ・ヘミングのドキュメンタリー映画に彼女の演奏する「ラ・カンパネラ」が弾き始めから弾き終わりまで収録されていた。映画の中で、私は「ラ・カンパネラ」を1曲まるまる聴いたのだった。
気づけば滂沱の涙を流していた。ヘミングが「ひとつくらい壊れそうな鐘があったっていいじゃない」と自分のカンパネラを評していたその演奏に、涙はあとからあとから落ちてきた。降ってきた。両目は常に涙に覆われて、まばたきのたびに涙が落ちて一瞬視界の輪郭がはっきりして、2秒後にはまたぼやける世界になった。
私はこれを弾きたかった。18歳のときに、弾いてみたかった。もしピアノを続けていたなら技術がピークに来ていたのであろう18歳の1年間に、この曲を選びたかった。この曲を弾きたかった。最後まで弾いてみたかった。この曲と一緒に高校を卒業してみたかった。
忘れていた。この曲にずっと、ずっと、憧れていたことを。この曲が、かつての無邪気な私の目標であったことを。この曲が、本当に好きだったことを。
私はピアノを続けられなかった。自らのピークを見ることも聴くことも感じることもなく、ピアノを静かに終えてしまった。自分の一部がピアノであった時期、ピアノが生活の一部であった時期、何もかもは、通り過ぎて行ってしまった。
実家に帰省するたび、誰も触れなくなったピアノを見ては、言葉を失う。
大学生だった頃はたまにその蓋を開いて、足元に置かれている数冊の曲集や過去の楽譜を開いて鍵盤に指を乗せて、戯れに弾いてはみたけれど、もう私の指はあの日々のやわらかさをとうに失って、もつれては転んでを繰り返し、満足に弾ける曲はもう1曲として残っていない。随分、遠くに離れてしまった。私はあなたの鍵盤で育ってきたのに。あなたが私に音を、一人だけの舞台を、熱いほどの光を、聴いてくれる人たちを、あの喝采を、惜しみなく私に与えてくれたのに。結局は、私の方があなたから離れていくことになるなんて、想像だにしなかった。
それでも感謝しているよ。心から、あなたの美しい鍵盤を愛しているよ。
あなたの音より美しい音はないと、今でも、心から信じて疑わないよ。
今でも愛しているよ。私に有り余るほどの幸いをもたらしてくれたあなた。もうあなたを美しく弾くことは叶わないけれど、今でも感謝しているよ、愛しているよ。
ずっと、愛しているよ。
私がピアノを習っていることを知った人は、じゃあ両手を握ってみてと言った。
言われた通りに両手を軽く握ってみると、その人は私の拳をまじまじと見て、やっぱりそうだねと言った。
「ピアノをやってる人はね、指をたくさん動かすから骨の周りにもたくさん筋肉がついたり骨自体が強くなったり大きくなったりして、指の付け根の関節のくぼみが人より深くなるんだよ」
私の手は今でも骨ばっていて、血管が浮き出ていて、握れば骨の上に太い筋が見えて、山脈のようにでこぼこしている。
かつて30年前の、私の両手への祖母の一目惚れはあながち間違っていなくて、私はいつも人から綺麗な手だねと褒められる。自分の体で一番美しい場所はと訊かれたら、私は迷わず手だと答える。
私の手は祖母が一目惚れした手。
あなたが15年かけて仕上げた手。今もあなたの面影が残り続ける、私の手。
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