呼べよ叫べよ、嵐の丘から高らかに
第5章 2020東阪公演「UNHESITATE」
いきなり第5章から始めたのは過去にも彼女について書いたことがあるからだ。2017年、最後の第4章は全国ツアー「syndrome」で終わっていた。4年が経った。鬼束ちひろのその後を、その新章の幕開けを告げたこの公演から、私は彼女の物語を続けてみたいと思う。もちろん、4章までと同様に、これはライブレポートでもあり、私のフィクションでもある。私の目が見た彼女の物語の、幾千にもあるうちの一つにすぎない物語、あるいは幻覚である。そんな幻覚を許してくれる人だけに、読んでもらえたらいいなと思う。
ロビー時間:4章まで
「I My Me Mine 或いは届かないSehnsucht.」
UNHESITATE setlist
BORDERLINE
End of the world
Tiger in my love
Beautiful Fighter
イノセンス
私とワルツを
流星群
ダイニングチキン
EVER AFTER
悲しみの気球
火の鳥
MAGICAL WORLD
CROW
蛍
書きかけの手紙
月光
嵐ヶ丘
アレンジされた「月の光」が静かに演奏される中、彼女は裾の長いシンプルなドレスでゆっくり中央に歩いてくる。音楽が遠ざかり、一瞬の静寂に完全に包まれる直前、真紅の照明とともに「BORDERLINE」の鋭いピアノがぴんと糸を張る。糸はその一音だけで観客を縛り付け、ステージへ括り付けてしまう。
FEEL ACROSS THE BORDERLINE
NOW YOU’RE SAVED AND YOU UNDERSTAND
さあ 神の指を舐めるの
前回、私は第1章「神の子が『神』になるまで」でこの「BORDERLINE」という曲についてこのように書いた。「これは彼女が神を引き摺り降ろそうとする曲だ」と。「月光」によってこの世界に堕とされた彼女が神の子の力を開花させ、かつて自分を堕とした神の国へ復讐ヘ向かい、あるいはそれを達成する曲なのだと解釈した。だからこそ、この解釈においてはこの曲は「到達点」の位置にいなくてはならない。3rdアルバム『Sugar High』でこの曲は絶対に最後の曲でなくてはならなかった。
その曲をライブの1曲目に持ってくるとなると、また次の、新しい解釈を求めてみるのもいいだろう。
この曲のタイトルは「BORDERLINE」、「境界線」を意味する言葉だ。しかもここには「どちらか一方に決めきれない」という意味も含んでいる。ライブの始まり、私たちの前には、いわば何らかすれすれの線が示されるのだ。三島由紀夫を気取るつもりはないが、これは「その線を越えてこれるか」という、鬼束ちひろなりの「誘い」なのではないだろうか。このライブを聴くからには、この線を踏み越えておいで、こちら側へおいで、という、観客の覚悟を試すかのようなささやかな悪戯心、遊び心。けれど観客は自らの覚悟がいかほどかを考える余地もなく、引き寄せられる。引きずり込まれていく。そうさせるのは、「BORDERLINE」をおいて他にはない。この曲は神への復讐を歌うだけでなく、私たちに門を開いて見せる音楽だ。
汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ
ダンテ『神曲』
それからセットリストは一転して柔らかな「End of the world」に移り、前回のストリーミングコンサート「SUBURBIA」からの「Tiger in my love」がまた空気を変えていく。
しかし、その次「Beautiful Fighter」が流れ出したとき、私はこのコンサートの展開がさっぱりわからなくなってしまった。なぜ今、今になって、「Beautiful Fighter」。結局東芝EMI時代のアルバムにも収録されることはなく、ベスト盤やシングルコレクションにしか入らなかったこの曲。CD音源では彼女にとって初のピアノレスな音楽は、ピアノ・バイオリン、チェロの三重奏によって見事に形を変え、軽やか且つジャジーな響きに生まれ変わっていた。
ここから、まるでジェットコースターのように、意識が撹拌されて自分が彼女の音楽に飲み込まれていくのを、そうなっていくのに、なすすべがなかった。「Beautiful Fighter」の戸惑いを引きずったまま流れ出したのは『インソムニア』より「イノセンス」。アルバムの2曲目、「月光」の次にあたる曲だ。なぜここで、イノセンス。コンサートで披露されるのはいつぶりになるんだ、このイノセンス。けれどこの「イノセンス」もまた、20年を経た鬼束の圧倒的声量、叩きつけるような声の勢いが曲そのものの力を底上げし、「BORDERLINE」で私の体に絡んだ糸は今や太い縄になり、私は全身を縛り上げられていく。息が知らず止まる。曲が終わり、コンサートでは定番となった「私とワルツを」のイントロが流れ出した時は思わず安堵したほどだった。
けれど定番曲「私とワルツを」「流星群」で少し力が抜けたのもつかの間、また思いもよらなかった曲がやってくる。「ダイニングチキン」だ。いつぶりに歌うのか、そもそも、コンサートで歌ったことあるのか、この曲。「Sign」のc/w曲に隠れてはいるが、大好きな曲。静かに静かに、回線は巡り狂い絶望が澄み渡っていく音楽。
始まりを示し終わりを示す誤作動
私は星で
貴方は願うのをやめただけ
回線は巡り行く
今夜も 静かに
それは決して眠れることのない眠り
ここまで聴いて、少しだけ残った思考の余裕で考えて、このコンサートはつまり、翌日に発表される新アルバム『HYSTERIA』の裏ヴァージョンなのかもしれないと思った。『HYSTERIA』が20年前の音楽を再発見し、リライトされて組み上げられたアルバムならば、この「UNHESITATE」は今まで喝采の光に当たってこなかった音楽を拾い上げ、光を見せてやろうとする試みなのではないだろうか。20年間眠っていた音楽、20年間輝く曲たちの隣で静かにじっとしていた音楽、彼らに、鬼束は同じものを感じたのかもしれない。
それに「ダイニングチキン」に続く「EVER AFTER」も、「SUBURBIA」から引き続いた選曲となるものの、意外な選曲であることには変わりがない。アルバム『剣と楓』に収録されている音楽でコンサートに使われるのはもっぱらシングルカットされた「青い鳥」である。今まで歌ってこれなかった曲を、あまり光に当ててやれなかった曲を、彼女は意図的にセットリストに組み込んでいったのではないだろうか。
それから、2018年「BEEKEEPER」に続くような、観客を包み込み、優しく抱きしめ、語りかけるような音楽が散りばめられる。「火の鳥」「MAGICAL WORLD」「CROW」。中でも「CROW」は20年が経って大きく花開いた音楽、20年経ってようやく彼女自身がこの曲に追いついた音楽だと言っても良いだろう。『This Armor』で発表した時から様々な苦境、悲しみ、死ぬほどのしんどさを飲み込み続けてきた彼女だからこそ歌える、響く、燦然と光が降り注ぐような救済の音楽に、この曲は20年かけて進化したのだ。
「私が死にそうだったとき、曲を書くよりも生きるほうが辛かったとき、ファンの皆さんに救ってもらったんです。曲を聴いてもらったり、CDを買ってもらえるって、本当にすごいことなので……。だから、今は私がノックしてあげる番だと思っていて。死にそうなくらい辛い人がいたら、私が心のドアをノックして、〈大丈夫、大丈夫〉と言ってあげたいです。」
(鬼束ちひろが歩んだ20年――叶わなかった思いに祈りを捧げる歌、その道程と現在地)
この鎧は重すぎる 私にはとても
優しささえ伝わらずに 倒れるのは嫌
もう誰も貴方を攻めたりしない
そんなの早く脱いで
それから音楽は「蛍」へ移り、20年目の曲「書きかけの手紙」に入る。一面が夕日を思わせるオレンジ色の照明、その中にいて彼女の輪郭すらも覚束ない。自分がいなかった頃、自分を見つけられなかった頃、その日々にいてただ涙が溢れるだけの、そんな頃が表されているようにも見えた。けれど彼女には返事が届く。彼女が手紙を書けないままでも、あなたの何もかもを覚えているよと、許しているよと、言ってくれる人がいる。
貴方に優しく出来なかったあの頃や
貴方に辛さだけぶつけたあの頃へ
全部忘れられないと届いた返事
「まともじゃなくたって いいから」
「ふつうじゃなくたって それでいいからね」と
届いた返事を手に握りしめ、胸に秘め、足元に散りばめて、彼女は今、このステージに立っているのだった。「神の子」だった、こんな世界では生きられないと嘆いた。人のように振る舞えなくて泣いた。人と同じようになれなくて、いられなくて、それを誰かは「まともじゃない」と指をさし、私もまた第2章で「バベルの塔は崩壊する」と書いた。彼女は自分の生きづらさにずっとずっと耐えてきた。あるときは道化を演じることによって、あるときは外見を大きく変えることによって、「生きること」自体に、今にも砕けそうな心ひとつだけで立ち向かい、耐えてきた。
その「耐えてきた」彼女が、もう一度「月光」を歌う。こんな世界では生きられないと嘆くばかりだった20年前の自分をもう一度歌う。もちろん、「月光」という曲なくしては鬼束ちひろのライブは締まらないと考える人も多いだろう。私だってそう思う。歌わなかった方が拍子抜けする。きっと「月光」を聴きたくてライブに来る人だって少なくないはずだ。この曲は紛れもなく彼女のライブの定番なのだ。
けれど、「書きかけの手紙」を歌い終えたあとに続く「月光」は、定番曲だからという、それだけではなく、かつてこんな世界では生きられないと嘆いた自分への、鎮魂歌のように私には聞こえた。「貴方」が大丈夫であるように、「私」もまた大丈夫なのだと、もういいのだと、40歳を迎えた彼女が20年前の彼女を許し抱きしめようとしたのだと思った。それでも歌われた「月光」はさすが年季が入っていて、歌い込まれていて、今でもこの1曲でそんじょそこらの曲を吹き飛ばせるほどの力は保ち続けてはいるのだけど。
そして「月光」を歌い終えた。私はこれで今夜は終わったなと思った。
しかし彼女は喋り出した。「MC省くね」という、ものすごく今更なことを。
何か珍しく挨拶でもするのかな、こんなひどい状況だけど来てくれてありがとうとか、そういう一応の挨拶みたいなのが彼女のライブだろうとあるのかなと思っていた。
違った。
「じゃあ最後の曲です。聞いてください、『嵐ヶ丘』」
この一言を聞いたとき、私は無発声をきつく言い渡されているにも関わらずマスクの下で「へっ?」と声を出してしまっていた。
「嵐ヶ丘」。序盤に歌った「Beautiful Fighter」のc/w曲であり、私が第2章で「ちひろがふと正気に戻った、我に返った曲」だと書いた曲だ。
「それまでひたすら前へ前へ、上へ上へと拡大しつづけていた彼女がここで足を止めてしまう。自意識の肥大へのコントロールがだんだん利かなくなり、わたしはひょっとすると神ではなく、ただそう思い込んでいる狂った人間に過ぎないのではないか、だけどもとに戻ろうにも、もう自分で自分をコントロールすることもできない、聴衆(信者たち)もまたわたしを神の子だと信じて疑わない。後戻りができない。だったら今のわたしは何なのだろう。神でも人間でもない、
もはや、ただの「怪獣」、なのでは、ないか。」
(I My Me Mine 或いは届かないSehnsucht. 第2章「バベルの塔は崩壊する」)
この曲も「Beautiful Fighter」同様CD音源はピアノレスな音楽だが、ライブではピアノや弦の入ったアレンジで歌われる。個人的にはサントリーホールでのアンプラグドライブによる彼女の悲愴に溢れた「嵐ヶ丘」が好きなのだが、今夜の「嵐ヶ丘」は全く違う感情が音楽には乗せられていた。
イントロに合わせ、彼女は手を口の横に当て、まるでやまびこのように、呼びかけのように、「鳴いた」のだ。それは歌詞の中で怪獣になってしまった主人公の、悲しみでもない焦燥でもない絶望でもない、前向きな「鳴き声」だったのだ。
「もう誰も貴方を攻めたりしない そんなの早く脱いで」
「誰にも傷が付かないようにとひとりでなんて踊らないで」
「まともじゃなくたって それでいいから」と
「ふつうじゃなくたって それでいいからね」と
ああ、と、「わかった」気がした。
かつて「何故まともでいられないの?」と問うた自分に、「まともじゃなくていい」と言ってくれる友がいて、そんなあなたの曲が好きだと言う多くのファンがいて。
誰も攻めたりしないなら、傷つけてしまうことになっても誰かと踊ることが許されるなら、まともじゃなくても、ふつうじゃなくても、いいなら。
無傷で過ごせたとしても
奇妙な揺れを待っているの
心を震わせながら
だから私は逃げ出さなかった
誰でもない自分から
渦巻く空が呼んでいるの
何より大きな声で
「怪獣でいよう」
この丘で、鳴き声高らかに、私はここにいると叫んでみせよう。
この声は神へ投げかけるんじゃない、私の音楽を聴く人へ、貴方たちへ届けばいいのだ。
私の声が聞こえている貴方はひとりじゃない。私はここにいる。
雨に打たれても、風が吹き荒れても、どれだけのものがこの声をかき消そうとしても、私は呼び続けよう。力の限り、命の限り、ここにいよう。死にたくなるほどの夜が続いても、心なく傷つけられ続けて立てなくなっても、洪水のような悲しみに足を取られて倒れても、私は力の限り、ここにいよう。この嵐の丘に。
私はここにいる。嵐の丘で鳴いている。貴方へ向けて鳴いている。
怪獣になる、怪獣でい続ける覚悟を決めた私はここを決して離れない。
ここは私の丘だけど、ここから貴方を見ているよ。想っているよ。貴方のために鳴くんだよ。この声が聞こえる貴方は、ひとりじゃないんだよ。
これは例えばキリスト教的、のような「自己犠牲」ではない。彼女は誰かのために、誰かの代わりに「嵐ヶ丘」にいるんじゃない。かと言って、この嵐吹き荒れる丘へ誰かを引き寄せて道連れにしようとしているわけでもない。ただ自分はここにいると決めたのだ。ここから、絶え間なく貴方へ、私たちへ呼びかけると決めたのだ。
〈歌を通して、リスナーに手を差し伸べたい気持ちもある?〉
「何かをしたい、とか〈こうあるべき〉というメッセージはまったくなくて。ただ〈想ってる〉ということですね。その感覚はずっと変わってないです」
(鬼束ちひろが新作で邂逅した20年前の自分自身――過去の旋律と現在の言葉が織り成すショッキング・ピンクの音世界)
自分は嵐の中に身を投じながら他者を思い、自分の音楽を聴く無数の人を思い、彼女は歌い続ける。その禁欲的な潔さ、その、底の抜けた愛。
鬼束ちひろはどこまでもストイックで、自分の音楽に厳しくて、同じほどに自分の音楽を大事にしていて、同じだけの感情の大きさでファンを思う、自分の音楽を聴く人がいるということを心から尊ぶことができる、優しい、愛の人だ。生来愛の人だったのかもしれない、けれど20年かけて、彼女は悲愴の歌を覚悟の歌へ、他者へ呼びかける歌へと変えて見せたほどに、愛の人になった。
怪獣は今日も高らかに鳴いている。嵐の丘で、笑顔を浮かべて。
ここから第6章 HYSTRIAに繋げようかと思っていたけれど、アルバムの一曲一曲に対してはこれはこう、あれは多分こうと語るのは私の音楽的知識と感覚では絶対に足りないし、『HYSTERIA』については鬼束ちひろ自身もいくつかのインタビューに答えてもいるので、それがすべてであろうと書かないことにした。私が書けるのは、ライブという一度きりの体験で自分という個人が感じたことと、そこから見えてきた物語だけだ。
けれどこれを、「UNHESITATE」を、『HYSTERIA』を鬼束ちひろの新章と言わずして何と言うだろう。紛れもなく彼女は、4年前の『シンドローム』からもう一つ新しい扉を開けたのだ。
追いかけたい。これからもずっと、絶対に追いかけたい。見ていたい。聴いていたい。応援していたい。彼女がデビュー20周年であるなら私だってファン20周年で人生の2/3には鬼束ちひろの音楽が存在しているのだ。人生の最初10年なんて自我がないも同然なのだからカウントしなくてもいいくらいだ。もはや人生だ。
鬼束ちひろは私の人生だ。
今から、別の第6章が書けるが日が来ることを楽しみにしている。
『HYSTERIA』にまつわるインタビューたち
「UNHESITATE」のライブレポート
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