消失

2020年は、「過ぎていっている」と言うよりも、「消えていっている」と表した方が、私にはすとんと腑に落ちる。


一日は、「昨日」となった時点で「過ぎた」のではなく「消えて」いる。ふっと、いなくなっているような気がする。あんなに終日気を揉んだ大阪市住民投票も、気づけばもう一週間前のことで、あの日の朝、きらめく秋の陽光、投票の後に食べたトーストとコーヒーの味、部屋に帰ってきた後の感情の揺らぎ、あれらはもはや、私の背後遥か遠くに押しやられて、まるで小さな点みたいだ。まだ一週間も経っていないはずなのに、もう、あの日は点のように遠い。


大統領選は未だ膠着が続く。開票を止めろとはよく言ったものだ。自分が何を言っているのかも理解していないのだろう。膠着は続く。人間の愚かさや反知性の醜さもまた膠着し、ぎゅっと握れば、砂となって砕けていく。


日々は瓦解していく。手に力を込めると、たやすく崩れ指の隙間から風に吹かれて消えていく。砂と化した日々が、私の足元に広がる。一面に、広がっている。一日は日付が変わると同時に砂と化し、砂漠は深度を増していく。私の足を沈める砂漠。いつかは私の存在をも飲み込んでいく砂漠。




なぜ?

かつては硬いアスファルトを、水捌けの良いグラウンドを踏みしめて、地に足をつけて、走っている、生きている実感があった。足元が強固であれば、それを踏みしめる私の輪郭もまた鮮明で、透過できない中身があって、存在している自覚があった。

2020年という年がそう思わせているのか、単に自分が年を経たからなのか、私は私の存在感が、日に日に薄く、軽く、なっていくように思われてならない。足元から私を沈めていく砂漠は、私の輪郭を突き抜けて私の中から生命を吸い込んでいる。私はゆっくり透過していく。



今年に入ってすぐの頃に、『消失の真冬』という短編を書いた。

普通の日常を生きる人々が、ある日突然何らかの欲求を永遠に失ってしまう「消失」という現象を描いた物語だ。

この短編を書いたときの私は、今の世界がこうであること、今の、11月6日の私の心持ちがこうであることを、一雫の予感もしていなかった。けれどこの2020年に言葉を当てるとするなら、消失。それ以外には考えられない。

東京オリンピック、大阪市住民投票、アメリカ大統領選、そう毎年起こるものではないこれら大きな出来事たちは、この2020年という年に嵌まり込んでしまったが故に、消失する。平等に瓦解し、砂となり、一面の砂漠を作り上げる。この砂漠こそ、2020年だ。




明日、3ヶ月ぶりに会う人と会う。日本語がおかしい。

前に会ったときは夜になってもうだる夏の夜だった。それが今はもうストールとコートなしには外を歩けない、冬に足を突っ込んだ秋だ。この間、私は何をしていたのだろう。8月があった。消えた。9月があった。帰省した、人に会った、出かけた、そして消えた。10月があった。第二四半期決算に追われた、休日も会社に行った、次から次へと出てくるミスの数々に怒り狂って帰った、そして消えた。

消えた、消えた、全てが消えた。



何が足りないのだろう? 私を透過させずにいるには、私の足を沈めないためには、何が足りないというのだろう?

毎日会社に行って働いている。人と顔を合わせて働いている。休日になれば映画を観に出かける、一人で本を読む、こうやって文章を書く、それからたまに人と会う。それだけでは足りないというのだろうか?


常に寄る辺ない。常に寄る辺ないということは、私は常に身軽であるということに等しいだろう。私は身軽だ。救いようもなく身軽だ。私が知覚している私の正気は側から見れば狂気かもしれない。

だけどそれを誰に気づかれるというのだろう? 私の世界は日々、消失していく。私の狂気に気づいて指さす誰かも、明日が来れば平等に、消失する。


(20201106)

0コメント

  • 1000 / 1000